事実と真実<科学的言明と日常的言明> その1   

 私は、もっとも基礎的かつ具体的な社会である日常の生活世界が「主観のカオス」であってはならないと強く感じるが、それらを整序する社会についての科学的言明が、日常生活から遊離した「難解で第三者的な評論」程度に映ってしまえば、その言明がいくら科学的価値・科学的真理を持つものでもその“基礎的”社会にとって無用の長物となってしまおう。我々の“言語”である日常的言明と我々にとってはいわば異次元とも思える科学的言明は、そもそも相互作用をもたらさない異なった言明であろうか。

 結論を先取りして言えば、高度に構造化された科学的命題においても、日常生活に蓄積された「智慧」(lore)であっても、「現象の描写」からスタートし関連づけるという点は共通である。そして科学命題と智慧は経験的に検証可能であるという点で共通する側面を持つ。従って、問題解決的な現象の描写という点で両言明は同次元に位置するはずである。その意味で私は両言明が真偽を軸にした判断を希求する点に立脚することで、その言明はおろか、当然のことながら真偽に対する姿勢にまで相互に影響しあうに至ると考える。

 しかしながら、実際の社会生活上にこのような相互作用は見られない。現代社会におけるメディアの発達は、ダイレクトに我々の社会生活の中に「現象の描写」を差し込むことを可能としたが、あふれる情報に埋没し情報の経験的な検証を困難とさせてしまうに至った。

 科学的言明は「事実」の積み上げによってのみ導かれる「事実」を語り、日常的言明は「真実」だと思われた事柄を語るものである。科学的言明はその意味で客観的であり、「真理」を表現する最も近い言明である。一方日常的言明は、それらいちいちの言明が100%正確な描写を伴っている必要性は必ずしも高くない。結果として「真実だと思われる」ことが得られたら、「真実」は巷にあふれるのである。そしてそのあふれた「真実」は誰に淘汰されるでもなく、「真実」として受け入れられた者のなかで生きていく。その主観性と一過性、そして非普遍性という性質の結果として「真実」の語とはかけ離れた「真実」があちらこちらで誕生するのである。科学的言明と日常的言明が共に「現象の描写」から始まり、かつ経験的に検証可能であるにもかかわらずこのように性質を異にする原因は「事実」「真実」「正確さ」といった言明の属性に関する観念にあることは言うまでもない。

 これらの関心について、今日では早くも古典の仲間入りをしたといわれるパーソンズの『社会的行為の構造』序章付論は、もしもこれを平たく表現するならばきわめて常識的となるかもしれないが、しかし、生活世界の中で必ずしも省みられているとはいえない重要な観点に言及している。パーソンズは、『社会的行為の構造』の中で「事実」の概念について「概念図式を用いてなされた現象に関する経験的に検証可能な言明」という定義を用いて説明している。彼が着目しているのは「現象に関する経験的に検証可能な言明」という箇所であり、「事実はそれ自体現象では全くなく、一つあるいはそれ以上の現象に関する命題である」として、現象そのものとある主体者によって表現された命題との関連性について言及している。彼はここですべての科学理論は事実および事実の関係についての言明によって作られるとしているが、これは科学理論に限られることではなく生活世界のコミュニケーション関係一般についても及ぶ内容を含むものと考えられる。
 
 先取りしてすでに述べたので繰り返しになるが、科学的言明は「事実」の積み上げによって導かれる「事実」のみを語り、また手続き的に反証の余地を残しているという点で客観性を確保し、より言明を精緻化しゆく構造を持っているが、我々は科学的言明のこの構造に大いに着目する必要があろう。 

・・・続く
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by cogno_eb2 | 2004-10-09 11:05 | 社会学的考察

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