事実と真実<科学的言明と日常的言明> その2   

 “どれか一つの理論に含まれている事実が、それと対応する現象についてなされうる唯一の検証可能な命題である”ことは意味しない。そして「科学的理論の体系によって体現されている事実は、そこに含まれている具体的現象について完全に記述し尽くすものではなく『一つの概念図式の観点から』言明されたものにすぎない」。

 いうまでもなく、命題の現象との関係性はあくまで相対的である。それは、パーソンズが指摘しているように、命題表現は現象それ自体の実態の一部であり、科学はその切り取られた命題群を一定のルールのもとに構造化する。故に「いかなる現象も、省略法的意味においてしか『事実』とはいえないということが引き出される」と結論づけるのだが、ここにはもう一点明確にしておかなければならない事項がある。これもまた、もはや声を大にする必要もない事項かもしれないが、それはつまり、現象を命題化する際に認識者の認識主観がその成果に大きく影響を与えるということである。

 総じて「事実」の相対性は、第一に現象の命題化の時点において主観が作用するという(いかなるカラーで現象を把捉するかという)「質的側面」、第二に表現された個々の命題が“現象を完全に記述し尽くすものではない”という(現象それ自体との比率という点での)「量的側面」の二点において決定づけられる。

 それでは社会科学理論は(その基盤が流動的であるという意味で)相対的であろうか。パーソンズは相対性の「質的側面」と「量的側面」の難について次のように述べている。
 「一般的には、まず第一に、経験的事実に対する関心は、理論体系の論理構造によって方向づけられるだろう。事実に関わる[経験的]問題の重要さは、[理論]体系の構造に本来内在するのである。経験的関心といっても、それは、これらの[重要な]問題の解決に関連する限りでの諸事実に対する関心、ということになろう。理論はわれわれの知っていることが何なのかを定式化するばかりでなく、われわれが知りたいものは何なのか、つまり解答の必要な問いが何なのかについても教えてくれる。さらに、理論体系の構造は、ある問題に対する可能な解答には、どのような選択肢があるのかについても教えてくれる。もし疑うすべもない正確さで観察された事実がこの選択肢のいずれにも合致しないとすれば、再構成する必要があるのは[理論]体系それ自体なのだということになる。」


 パーソンズは「経験的事実に対する関心は、理論体系の論理構造によって方向付けられる」としているように科学の地平からスタートしているが、半ばそれと対置されると考えられている我々に身近な生活世界の認識地平から考察するとしても、「論理の構造は閉じている(完結している)」のである。そのように、生活世界における日常的コミュニケーションについて、「閉じた構造にある」と言われないのはこれらの点を認識していない認識者が圧倒的に多いというだけの問題であって、やはり生活世界にはそれ特有の論理の構造が存在するはずである。私は、多少ともコミュニケーション形態に「論理」の形態を認めるならば、認識地平を問うことなくコミュニケーションは論理構造のルールに則らなければならないと考える。

 「たしかにわれわれは、個々ばらばらで統合されていない断片的知識を持つことができるし、自分の関心に従ってさらに分解された断片的知識のうちに「真理」を認めることもできる。しかし、この種の知識は、本研究が関心を寄せているような意味では、決して「科学」を構成しないのである。科学が構成されるためには、これらの知識の断片が明確な理論体系に関連づけられて統合されねばならない。」


 我々はなにも生活世界を科学化し再構成する必要などは全くない。しかし、断片的知識を主観的に結合して「真理」を見出すべきではない。価値感情に単純に導かれたランダムな個人主観がランダムにそれを表出するのではなく、ある程度体系だった(その意味で正確な)観点や問題の解答を求める姿勢が要求されることになることが理解されるだろう。まさに「すべての経験的に検証可能な知識は―たとえ日常生活における常識的知識だとしても―必ずしも明示的にではないが、このような意味における体系的理論を含んでいる」のであり、我々はその再認識からスタートせねばなるまい。そして「その再認識」の結果、インターパーソナルコミュニケーションがより大きな集団全体へとその存在を示しまた影響を波及していくことを阻止する障害がまさにインターパーソナルコミュニケーションにおける「許容」そのものである、ことが理解されるはずである。

・・・・続く
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by cogno_eb2 | 2004-10-09 11:08 | 社会学的考察

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