ブログはメディアになれるか?   

 木村剛さんのブログで「ブログはメディアになれるか?」という記事があったので、以前から考えていたことを少々書きます。
 
 ブログが新しいメディアになれるかどうか、という問題は、ブログを運営する「個人」、マス・メディアや政府などと対置する意味で、「市民」がどのようにこのツールを使っていくか、にかかると思います。

 前提として、私は木村さんと同じく、ブログに対する期待をもち、ブログをメディアに育てるというムーブメントには是非とも協力したいと思います(←私が役に立つかどうかは別として・・)。

 さて、私が大学院で学んでいたころは、「2ちゃんねる」が注目されていました。個人が泣き寝入りする時代は、ネットワーク時代に入って終焉する可能性がある、と。(←もちろん学術的にもっと高いレベルの話でしたけどね。)

 しかし、私は異なった考えを持ちました。2ちゃんねるの弱点は、「議論が成熟しない・荒れる」「ネガティブ情報の集積になる」「集積された情報に対して感情が反応する」等々とあげることができるのですが、つまりは、市民の認識力を高度に引き上げることに貢献できていないという現実があると、私は考えています。これはかなり大きなことです。社会的に認知されないのは、認識力や分析力の向上に貢献できないという致命的な欠陥があるからだと考えています。

 私は、市民が自らの認識力や分析力などの向上を希求しなければ、政府や役所、マス・メディアや大企業の形式合理性のブロックを破れないと考えます。政府等は自分たちを守るために形式合理性の堅固なブロックをします。私たち市民が出くわす、「え~、タテマエは分かるけどさぁ。そんなこといってんじゃないんだよ」という類の場面をケースに考えると、形式合理性はまさにこの「タテマエ」ですね。市民はそれに対して感情的に非難をするという対抗手段をとるわけですが、政府等からは「市民エゴ」と片付けられ、平行線です。ブロックは破れません。

 さらにタチの悪いことは、政府等は、自らは形式合理性のブロックで身を固めながら、情報操作をする、ということです。

 我々はその形式合理性のブロックを破るだけの合理性を身に付けなくてはならないと思います。

 某教授が「2ちゃんねる」のある側面に着目したのは、集積された情報が風評被害という副次的効果を生み、企業を動かしたという事実でしたが、これは企業に有効な手段であっても、それ以外には有効かどうかは疑問です。

 さて、私は形式合理性の資質を向上させることを目的にHPを開設していましたが、ブログの登場によりブログに切り替えました。やはり、トラックバックやコメントの機能により、連動性や双方向性が付加されたことが大きいですね。HPをやっていたころとは雲泥の違いです。

 ただし、ブログのこれらの機能が私の希求する「形式合理性の資質の向上」に向かうためには、もう少し時間がかかるかなと感じています。それは、政府の動きや社会動静などは、第一にマス・メディアからもたらされるという現実があるからです。取材が仕事であるメディア人とわれわれブロッガーを比較すれば、ソースの入手経路にあまりにも差があります。

 そのような現実の中で、「ニュースを見た」→「私はこう思った」の次のステップに移行しない限り、ブログはメディアにはなり得ないでしょう。

 私はHP時代から、そのニュースに接したときの第一印象にとどまることなく、さらにはメディアを通して知るその問題をとりまく論調に一石を投じることのできる視点を提供しようと記事を書いてきました(←もちろん、できていないものも多いかもしれませんが・・)。コメントやトラバの機能でその視点の集積ができ、前向きに論点を整理していこうという姿勢が前提となれば、有意義な集積が可能となるでしょう。

 2ちゃんねるは否定論者は否定の姿勢が最後まで崩れず、肯定論者もまたしかり。そして最後は排他合戦が始まる・・。
 
 最終的に排他に向かうかその逆かによって、大きく変わってくると思います。なぜそうなるか、は、別の機会に譲るとして、とにかく、ブログがメディアになるためには、形式合理性のブロックに対抗できる「市民の実質合理性の視点」を提供し、共有できる媒体とならなければいけないでしょう。
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by cogno_eb2 | 2004-06-01 15:56 | 社会学的考察

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