ブログのメディア性   

最近、「週刊木村剛」に影響を受けてます。

 木村さんが紹介されているブログのオーナーさんたちは、非常に示唆にとんだお話をされているんですねぇ。いや~、目が離せません。

 さて、ブログの将来性について考えてみました。十分な推敲はしていないので、おかしなところがあるかもしれませんが、UPします。

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『社会学的思考の基礎』(下田直春著 新泉社)の「科学的思考の四段階」からヒントを得て、ブログのメディア性について書こうと思う。

ブログのタイプとして、1.日記型 2.記事の紹介型 3.個人主観の発露型 4.相互主観形成型 の4タイプに分けられる。

●1.日記型
 ブログのオーナーが自分の生活の一部を紹介するタイプ。新聞や雑誌の記事へのリンクは少なく、自分でとった写真や生活上のエピソードが中心。
 ブログのオーナーを直接知っている人が常連さんとなり、盛り上がるケースと、同じような生活スタイルの人の共感を呼び、コミュニケーションの場ととなるケース。情報の根幹を生活においているので、いわゆる口コミ情報としてマーケティングへの影響を包含する。 
●2.記事の紹介型
 ブログのオーナーが関心を寄せた記事の紹介。新聞や雑誌の電子版へのリンクと、オーナーのショートコメント。
 関心が寄せられた記事の種類にもよるが、商品情報であれば口コミ情報に近く、また時事ネタであれば世論形成に近くなるが、記事へのリンクとかなり短いコメントにより形成されるので、1.や3.ほど影響力をもたない。
 ただ、膨大な数のbloggerがそれぞれの関心で記事を拾い上げるので、自分の持つ関心のみでは発見に至らなかった記事にふれるきっかけとなり、閲覧者の関心の幅を広げる効果をもつ。またブログのオーナーの個性を反映するので、匿名なコミュニケーションの場でありながら、ブログオーナーに親近感を持つ、といった、これまでのBBS系のコミュニケーションを超えるツールであると言える。

●3.個人主観の発露型
 ソースは新聞記事であったり雑誌であったり、TVであったりさまざまだが、ブログのオーナーが触れた情報に対して、そのオーナーが感じたこと、考えたことを発信するタイプ。2.が「こんなのあったよ」あるいは「ヴァーカ」程度のショートコメントであるのに対し、3.はリンクさせた記事に対してオーナーが感じた、あるいは考えた内容を披露するもの。
 リンクさせた記事に対して感じることは人それぞれなので、共感する他のオーナー・閲覧者や、逆にオーナーの考えに対し反論・異論を持つ者はコメントやTBを使ってコミュニケーションする。
 2.との違いは、形式的には本文とコメントの文章量で、実質的には他者に訴えかける意図があるかどうか。4.との違いは、文章量といった形式的な面に差異はないが、実質的な面で、ブログオーナー自身に議論の余地が確保されているかどうかになると考える。記事の捉え方、認識の前提、論の運び方が、たとえば非難一辺倒で、それにあい対する情報をもたらしても基本姿勢を変化させることのない、偏った姿勢であるようなもの。
 同一の記事に触れても、認識の基本前提によって、人は異なった反応を示すものである。その際、他者の異なった反応に対して攻撃的か寛容かによって3.と4.が異なると考えてもよい。

●4.相互主観の形成型
 ブログのオーナーが関心を抱いた記事に対して、オーナー自らの考えを示し、取り上げた件に対して他者の考えを吸収しながら思考を深めようとするタイプ。
 TBやコメントの集積の結果、オーナーが取り上げた件に対してのそれぞれの主観が集積され、相互に理解され共有されることによって相互主観が形成される。ブログに対して世論形成への期待が語られるのは、まさにこのタイプ。

 今回、「主観」と「相互主観」という言葉を用いて表現したのは、『社会学的思考の基礎』において、下田直春が科学的認識の四段階を立てわけ、主観と客観の問題をキレイに説明していることから、ヒントを得た。下田は相互主観の段階から普遍化への批判的認識の段階、さらには普遍化モデルの形成の段階へと進んで、自然科学の客観に対置して、社会科学の客観を説明している。

 ちょっと話がそれてしまったので、もとにもどそう。

 木村剛氏の「情報価値が変化する時代に、ブログはどういう役割を果たすか?」という問いについて、私は、このように考えた。

 これまでのマス・メディアの情報に対する個人の依存度は、ブログの登場によって減少傾向に流れるだろう。
 なぜマス・メディアに対する依存度が高かったのか。それは、取材力の圧倒的な差に起因していると考える。個人の生活では触れることのできない、時事・事件などの接点を、メディア各社は持ち合わせている。低俗な週刊誌といえども、「自分たちには取材できないので、ことの真偽は分からないが、彼らが取材した結果を書いているのだから事実を反映しているのだろう」という意識が、依存度を高める結果となる。
 週刊誌の覆面座談会などはもってのほか(そもそもが事実に基づいていない)だが、テレビ局や新聞社が報じる内容であっても、製作者側の意図が組み込まれていることは、現在ではだいぶ常識化してきたように思う。映像の使い方や記事の書き方には、表現しようとする側の意図が反映し、事実のみを伝えたとしても、受け取る側にある一定の方向性を暗に伝える結果となることは理解されることと思う。
 
 マス・メディアであっても作り手の主観が混じる。しかし、マス・メディアと視聴者の間ではコミュニケーションが成立しないので、伝え手と受け手との間での相互主観の形成は成り立ち得ない。マス・メディアが一方向で放った情報(+方向性)を受けた視聴者の間でのみ、相互主観の形成が可能だ。

 そもそも、マス・メディアであっても時事・事件をそのまま伝えるのではなくて、時事・事件といった事象の一側面を伝えるに過ぎないことから、メディアが伝える情報は「すなわち真実」ではなくて、「一側面の事実」である。ブログはその「一側面の事実」を契機としていることが多いので、bloggerとマス・メディアとでは情報ソースに決定的な違いがある。情報ソースに決定的な違いがあっても、その事実をもとに形成した主観を一方向で伝えるのがマス・メディアで(←もちろん社内での検討を経ているから記者の個人主観ではないが)、双方向で個人主観を相互主観へと引き上げる機能を有するのがブログである。

 ブログが有する「個人主観を相互主観へと引き上げる」効果は、マス・メディアが一方向で放たれる「論評記事」(事実を伝える記事ではなく論評系の記事)を凌駕する可能性があると、私は考える。同時に、そのような「論評記事」の価値を下げると考える。なぜなら、事実の報道とは異なり、社説やニュースキャスターなどの論評は、非常に狭い範囲での検証しか経ていないからだ。ブログがより広範囲にわたって浸透し、3.から4.へと変化すれば、より多くの個人主観のせめぎあいの中から相互主観が形成される。そのとき、単なる一人のライターやニュースキャスターの個人主観の発露は、マス・メディアという強大なツールをつかった押し付け(←一方向であるが故に)になって、価値が下がるだろう。

 マス・メディアは今後、事実の反映度をより高く保たないと価値が低下し、ブログは今後、相互主観の形成に貢献するサイトの価値が高まり、相互作用がより高度なレベルへと向かうだろう。(ただし、その価値に気がつく人が増加すればのことだが)

 卑近な例ではあるが、平日夜10時の時間帯に、報道ステーションからNHKニュース10に鞍替えする人が増えている現象は、これに近いものがある。報道ステーションの視聴率の低下は、古館キャスターが解説者に対して、視聴者を代弁した話題のフリ方ができておらず、「そんなレベルの突っ込みでいいのかよ!」とか「そんな話で総括すべきじゃないだろ!」という不満が、より私情をはさまないNHKへと切り替えさせる原因となっているのではないか。少なくとも私はそうだ。

 せっかく番組内に解説者を据えておきながら、ニュース映像が終わってスタジオに切り替わって、キャスターが的外れな観点で解説者に発言を促せば、ニュース+αの「+α」の部分の価値が低下し、ニュースはニュースとして報道してくれるだけでよい、とNHKへ切り替えることに。その点ニュースステーションの久米氏のつっこみは、視聴者の思いと一致する部分が多かったのではないだろうか。

 最後に総括すると、ブログというツールが持つTBとコメントの機能によって情報間の連帯が広がり、個人主観から相互主観の形成へとユーザーの価値感が移行することによって、これまでの短絡的な、反応的・反射的な世論の形成から、思考結果の相互作用による、より重みのある見解をもてるような個人、その集合体である社会へと移行するように考えることができると思う。
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by cogno_eb2 | 2004-06-11 13:57 | 社会学的考察

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