統一地方選挙   

世の中が選挙色になってきた。

 街角で選挙カーが大音量で叫ぶ。
 私の場合、確実に耳が拒否をする種類の街頭演説がある。それは、お門違いの演説で危機感を煽る、1950年代型の選挙演説だ。

 これはK産党やS民党が得意とする方法で、M主党もたまにやる(旧S民党もいるからね)。
例えば、知事選なのに国政や首相の悪口雑言を並べ立てる演説。単純に「知事選に関係ないじゃん」って思う。地方議会議員選挙にももちろん関係ない。例えば、「首相はこの国を滅ぼそうとしている」って叫んでいる知事選候補者がいたらどう思います?「はぁ?だったら国政選挙に出れば?」で終わりである。

 もしこの演説に共鳴して「国を滅ぼしたくないからこの候補に一票入れる」という人がいたとしたら、「もっと賢くなれ」と言いたい。だって、県知事の権限と国政の問題とは明確に線引きがされていて、がんばったってほとんど影響力がないといっても過言ではない。

 こうやって無知な大衆を煽るようなやり方を、戦術として確信犯的にやっている政党は私は信用できない。かつて公衆時代から大衆時代へと社会が転換したと論じられた1950年代の感覚から抜け出ていない愚かさを、彼らに見る思いだ。無党派層を大衆と同一視しているところに、我々の代表としての資質を見いだせない。

 1990年代以降、時代は情報化社会に入り、情報社会学では、主人公は大衆から「智民」へとシフトすると論じられている。情報化社会とは単にIT技術の進歩を指すのではなく、社会や生活の中に占める情報の価値が上昇し、多様であふれんばかりの情報から自らが価値判断を行い、その意味で自己責任で自立していく民衆が社会の構成員となることを指す。

 一方でかつて論じられた大衆とは、情報操作に乗りやすく、ステレオタイプを形成しやすく、オピニオンリーダーに判断の根拠をゆだねがちな、ある意味他律的で受け身な存在だった。

 街頭演説で危機感を煽ることで耳を自分に向かせ投票行動へと誘導する手法は、前時代的であり、かつ、有権者をその程度の存在としか見なしていない浅はかさを垣間見させる。

 我々が必要な情報は、投票行動を起こす際の判断材料であり、客観的な情報である。その意味で、神奈川県知事選や県議選であれば、1兆6千億という神奈川県予算の使い道であり、県の今の状況を次の4年間にどのようにしていくかの戦略である。市議選であれば我が街の抱えている状況の客観分析であり、それをどうするかという戦略である。
 
 にもかかわらず、国民投票法がどうだ、ホワイトカラーエグゼンプションがどうだというお門違いの訴えをする地方選候補者に対しては、「安心しなさい。国政選挙でちゃんと意思表示するから。で、あなたの本分の訴えは?」と冷ややかな目を送ってやろうと思う。
 
 有権者を小馬鹿にしていると同質なこういった候補者の演説は、百害あって一利なし。有権者を賢明にしていくような姿勢の人物がいるかどうか、品定めをさせてもらおうと思う。
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by cogno_eb2 | 2007-03-24 12:42 | 雑記(日記?)

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