三国志との出会い   

習慣ヤローさんが三国志ネタを書いているので、TBします。

私が三国志と出会ったのは、小学校の頃で、NHKで放送された人形劇でした。毎回欠かさずに見ている私に、母が横山光輝のコミックを買ってくれました。当時はまだ31巻くらいまで発売されていたと記憶します。その後は自分で60巻まで買いました。

中学のころにPC88を買ってもらって、コーエーのゲームをよくやってましたね。親からは何度も「ゲームばかりやって」と叱られました。

高校に入って、羅漢中の『三国志演義』を買ってきて、一気に読みました。このころ、三国志といってもそれは日本では「演義」を指し、陳寿の三国志正史(魏志・呉志・蜀志)を小説化したものだと知り、いつか読んでみたいと思ってました。

大学に入って神田の古書店街に行ったとき、中国書専門店も覗いて探したものです。結局、専門の社会学の書籍ばかり買ってましたが(笑)

そのころ買った陳舜臣の『諸葛孔明』は深く印象に残りました。それは、孔明が住んでいた荊州の事情がかなりリアルに書かれていたからです。簡単にいうと、荊州の太守であった劉表は、一国の戦国大名、というよりは、荊州一体の官吏のようなポジションで、軍隊を編成するにも、領土を持った各郡から拠出させないといけないということ。これは、昨年の大河ドラマ「風林火山」でいうと、甲斐守護の武田氏は、朝廷から守護職に任じられているけど、その戦力は小山田や飯富といった有力武将の集合体であり、彼らが離反すると戦えないということに似ている。ちょうど信濃守護の小笠原氏が、守護の権威が失墜し、高遠氏や村上氏が言うことを聞かずに敗走した事情に似ている。

それから、後漢の体制が崩れ、荊州太守といっても南陽が曹操の勢力圏にあったことは、「勢力の強いものが任命した吏員による統治」という特殊な事情があったことが『諸葛孔明』で明かされ、納得しましたね。孔明の兄の瑾が任命書をもって赴任しても、違う勢力からの任命書を持った者と戦争になる、というくだりが描かれています。

さて、三国志演義は劉備中心、蜀中心なので、日本人の心を打つのでしょうが、やはり本当は曹操の物語なんでしょうね。なぜ、あれだけの人材が集まってきたのか。人材の勝利だと思います。

よく、劉備は親分肌で人が集まってきた、という人物評を耳にしますが、蜀の国は圧倒的な人材不足。もちろん、地形的要因もあるのでしょうが、それにしても、揚子江を天然の要害として江東に引きこもったような形の呉の国よりも人材が不足しています。荊州を切り取り、その後益州を治めた時に、荊州を治める武将が関羽しかいなかったというのも人材不足を物語っています。益州攻めの際に、「あれだけの戦力を分けたのに躓いたか」と孔明が嘆いたかどうかわかりませんが、副軍師ホウ統が戦死し全くの手詰まりになって孔明ご出馬。この戦いで最初の戦力で益州をとれていれば、後に荊州を失わずに済んだのになぁ、と思ってしまいます。劉備が白帝城に逃げ込むきっかけになったのも、劉備の用兵術の誤りからだったことを思えば、人を使う力に疑問を持ってしまいます。

さらに、劉備の息子の大馬鹿さ加減を見ていると、人を育てるということについても大いに疑問が湧きますね。それに比べて曹操の息子の曹丕は11歳から従軍するなど文武両道。詩歌に秀でた曹植もおり、後継を立派に育てている点ではやはりなかなかの人物だと思います(もちろん、直に薫陶したとは思われないことも事実ですが)。

ある人の言葉に「後継を育てられない組織、家庭は滅ぶ」とありますが、本当にそのとおりですね。私もパパになったので、後継を育てる立派なオトナにならなきゃ。
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by cogno_eb2 | 2008-02-05 21:09 | 雑記(日記?)

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