認識→評価 客観と主観の構造(2)   

 実証主義社会学はいわば“価値の無菌室”から社会的事象を描写し、人間の相対的な認識・評価から離れて外在する社会的事実を対象とするが、ウェーバーは、多様な価値観が存在する社会そのものに立脚しながら、意味理解という形で社会を科学的に捉えると考えた。

 科学は主観的な言明の積み重ねでは成立しない。科学的言明は客観性が保たれてこそ“科学的”と称され、存在価値を生む。このことはウェーバーにおいても同様である。

 しかし、社会的事象に対する認識においては、行為主体の認識主観が紛れ込み、あるいは、その認識主観によって拘束され、自然科学に対する科学者のごとく普遍妥当性を得るには至らないとの主張も起こりうる。つまり、認識主観が拠っている「価値」から「自由」にならなければ、社会事象に対する客観性は確保できないとの主張である(前掲富永の分類5.)。

 それが妥当であるなら、我々は社会事象を認識する際に、自身に培われた価値観や価値性向から離れ、あるいはそれを捨て去り、社会事象を没価値的に把捉しなければならないことになる。果たして、社会事象に対して没価値的に事実判断することが可能であろうか。

 ウェーバーは「信念をもたないことと科学的な「客観性」との間には内的に何の縁もゆかりもない」とし、没価値的に対象を認識し普遍妥当の真理を見出すことで「客観性」を確保するという立場に反論する。


「実践的な社会科学の場合、何よりもまず「一つの原理」を樹立し、これを科学的に妥当なものとして論証することが肝要であり、そうすれば、この原理から実践的な個々の問題を解決するためのいくつかの規範が一義的に導きだし得る、ということが専門家によってさえも相変わらずのまま信じられているけれども、これは全く素朴な考え方である。」(「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」講談社学術文庫 p28)


 ウェーバーは、人間の認識は主観的であるであることを前提とし、その主観的な認識は、各認識主体が内的に保持する価値理念や信仰に基づいているとする。社会事象は多種多様な姿を見せる複合的事象であるから、その価値理念や信仰に紐付いた関心がなければ、複合的事象の一側面を切り取ることすらできない。

 社会事象の認識は、多様な価値観の混沌である複合事象を、認識主観の価値理念に基づいて切り取り、どのような価値理念から認識結果が導き出されたのかの因果関係を“客観的に”示すこと、つまり、その個別具体の事象と認識結果との因果関係こそが社会科学の対象であり、社会科学的な認識の要請とは、主観的な認識の過程を客観的に行えとの要請である。

認識→評価 客観と主観の構造(3)へ続く
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by cogno_eb2 | 2009-08-22 22:44 | 社会学的考察

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