認識→評価 客観と主観の構造(3)   

 下田(1989)はウェーバーの「客観性」を分析し、次のように指摘する。

「神々の争う価値理念の多元的状況に置いては、普遍妥当的な唯一の価値理念の絶対性を主張することはできず、それ自体解消しえない問題であるがゆえに、個々の認識主観の“主観的な”価値理念によって整序されるところの諸観点(すなわち価値理念)を常に明確にして、自己の現実認識にたいして、あるいは自己の現実解釈に対して責任を負う、誠実な学問態度をヴェーバーは要請しているのである。

 その意味ではヴェーバーのこの要請は、認識主観における“自己責任の要請”であったと言うことができるであろう。言い換えるならば、それは“価値理念の主観性”を現実認識の前提とせよと主張することによって、特定の価値理念の普遍性や絶対性を拒否するという意味で、“価値への自由”として価値自由(Wertfreiheit)の主張であったと言うこともできると思う。

 ヴェーバーが極力避けようとしたのは、学問における無前提性、自己の価値観点をできるだけ曖昧にして“事実をして語らしめ”ようとする偽の価値自由的態度であって、研究者は没価値的であれということでは決してなかった。それはいわば、学者に対する“責任倫理”の主張であったとも言うことができよう。」(下田直春『増補改訂 社会学的思考の基礎』(新泉社 1989)pp241-242)


自身が準拠している価値理念の影響をうけて、社会的事象は認識される。認識された結果と、自身が準拠している価値理念との関連が内的整合性をもち、明晰に説明されなければ、その認識者の認識結果が妥当であるか否かの判断すらできない。他者によって把握され得ない認識結果こそ主観的であり、どのような価値理念に準拠していても構わないが、その価値理念と認識結果が明晰な説明により他者においても把握されることが、客観的なのである。

 社会科学的に「認識」を捉えようとすると、ウェーバーが示したごとく、認識する際にすでに認識者の主観が入り込むため、(主観から離れたという意味での)客観性とはいえないのではないかとの難があることは既に述べた。

 ウェーバーはカオスの中で認識者の個人主観(価値理念)に関連付けられたもののみが切り取られ、認識対象として当該認識者に認識されるとしたが、下田はこれを修正し、一定の類型概念を内的に構築し、それに基づいて等同意識・差別意識をもって判断する段階が必ずあるとしている。これは牧口の認識観にも共通することである。下田は、常識のレベルで、例えば「帽子」という概念に、認識結果が合致するか否かの区別をすると例示し、人々の間に共通化されている理念や常識の存在を指摘している。

 現象学的社会学ではこれを相互主観とし、個人主観が自己の内部でのみ整合性をもつような、その意味で他者が理解できないような狭小の個人主観と、実証主義社会学でいう他者である社会的事実との二元論ではなく、個人主観と個人主観が相互の理解によって共有化しているとした。下田は現象学的社会学の相互主観の規定を批判的に考察し次のように規定し直している。


「科学者は自らの問題意識に導かれて社会的現実の諸問題の解明に向かうのであるが、その現実はすでにそれに関わる人々によって経験的に認識され、言葉によって対象化され、言葉の意味によって客観化された現実である。客観化された意味は、人々の常識として社会化過程を通じて個々人の意識のうちに内在化され、個々人の意識は他者たちとの相互作用過程の中で行為によって外化される。そこには、個々人の主観的世界と他者たちとの相互主観的世界との間に一連の知識サイクルがあると見てよいのである。社会的現実はその発端からしてまさに相互主観的であり、常識によって理解可能な世界としてそこにあるのである。」(前掲書p152)

「人間の行為によって不断に外化されるものが必ずしも常識化された伝統的なものばかりではなく、人間の自発的創造性による外化も常に存在するということ、そしてこれもまた対象化され客観化され内在化されていくということ、従ってそのサイクルは人間の自発的行為によって一種の螺旋型的進化をとげていくものであることを明らかにしておかなければなるまい。」(前掲書pp152-153)


認識→評価 客観と主観の構造(4)へ続く
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by cogno_eb2 | 2009-08-23 23:08 | 社会学的考察

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