認識→評価 客観と主観の構造(7)   

 これまでのマス・メディアは、情報発信の手段を独占的に所有することによってある種の公共性を備えてきた。しかし、今日ではHP、Eメール、掲示板、ブログといった情報発信ツールは廉価かつ手軽であり、情報発信の敷居は低くなったため、各個人がいかようにも表現できる無規制的な新しい“メディア”である。

 今日では多くのネットユーザーがこれらのツールを使用しており、インターネット上では、かつてのメディアが担ってきたある種の公共性という概念すらなくなってしまっている。

 インターネットの普及は生活者に情報発信のツールを与えるに至ったが、HPやブログなどを運営する個人の取材力は限られており、既存のマス・メディアの情報を介してニュースを知り、そのニュースに味付けをした意見をインターネット上に公開するに留まるケースが圧倒的に多い。

 これはすなわち、情報の多くはサイト運営者によって価値判断が下された情報であることを意味し、我々がインターネットを介して接する情報の多くが、既にある価値理念によって切り取られた事実、そしてそれに対するサイト運営者によって価値判断された“考え”なのである。

 このようなインターネットにおける現状は、時として大きな感情の渦を作ることになる。ややもすれば大きな感情の対立が生じ、敵対意識が増幅され、価値理念の激しいぶつかりあいが起きる。ここでは、自己の当初の評価を省みる“冷静”で“客観的”な姿勢は失われ、価値理念にさかのぼった埋めようの無い対立が引き起こされるため、高度情報化社会におけるHPやブログ等のツールによるコミュニケーションに対しては充分な注意が必要である。

「認識→評価」→「再認識→視野の拡大」→「新しい価値の発見」という螺旋状の発展形態のうち、最初の「認識-評価」の段階で終結し、さらには、自己の当初の評価を省みるどころか、感情の増幅によって客観性が失われることもある。これでは、螺旋状の発展など望めない。

 これまで指摘した事項は、端的に言えば「認識-評価」の段階で留まり次の段階に至っていないことから、螺旋型的発展の機会を失い、「認識-評価」の段階で個人主観が増幅・増強されるのみで、輪廻もしくは生起と終息の繰り返しに陥っている状態である。

 ここで対象としてきた「人」は、職業人ではなく私人である。職業的な制約や準拠集団からの制約等を考慮しない、いわばプライベートな時間における私人である。ここでは高度情報化社会における、自己表現欲求にのみ基づいた私人を対象としているので、その目的は“ただ自己表現すること”であり、議論の結果を利益や名声の獲得等に結びつけるような、また、議論の結果をなんらかの成果に結びつける問題解決型の関心に貫かれているわけではない。

 これを自然状態の評価者とここではひとまず表現するが、この認識構造をもつ「自然人」が、インターネットといったバーチャル空間ではなく、職業組織や教育組織などの半ば義務的な所属集団に加え、サークルや知人のネットワークといった任意の所属集団等、なんらかの準拠集団に所属している間は、その集団がもつ目的観を自己において消化し、成果志向の具体的目標が与えられ、なんらかの具体的な行動を行わなければならない。

 「自然人」そのままの振る舞いは認められず、所属する集団の価値理念や目標に基づいた行動をとらなければならない。私人では自然状態であるが、準拠集団に所属する(広義の)組織人としては、その集団が必要とする行動をとることが要求されているのである。

認識→評価 客観と主観の構造(8)へ続く
[PR]

by cogno_eb2 | 2009-08-27 23:25 | 社会学的考察

<< 認識→評価 客観と主観の構造(8) 認識→評価 客観と主観の構造(6) >>