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ブログで建設的に議論する方法について考える(TB) その1   

 骨のある記事で私が注目しているあざらしサラダさんとyodaway2さんのお二方の豪華対談(!)にTBします。

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 あざらしサラダさんが指摘しているように
納得できる根拠を示さないまま相手の人格を一方的に否定するような記事を書くと、それに反発するコメントが多く寄せられる

という原理は確かにそのとおりだと思う。

 また
他人と意見交換することを意識して記事を書いているブログでは、記事を書く場合、コメントやトラックバック記事を書く場合それぞれにおいて、最低限のルールというか何らかの約束事が必要ではないか、と私は考えています。そうしなければ、誹謗や中傷のない冷静な議論は困難ではないでしょうか?

 とも指摘している。

 私もこの意見に賛成だ。私は、文章を書く、それも、公衆の面前に公開する文章を書く、という場合に、すでにルールが存在していると考えている。「人格攻撃」はタブーだ。根拠や理由を示したとしても、「人格攻撃」をしてしまえば、その文章の価値が著しく低下し、読むに値しない文章に落ちてしまうことを、書く側が肝に銘じるべきだし、そのような文章を公開したところで、そうは感じていない読者から一斉に非難されて駆逐されるだけだ。駆逐されれば、せっかくの「書いて公開する」という行為が無に帰してしまうのだ。
 
 「2ちゃんねる」が社会のアングラ程度の評価しか得られなかったのは、結局、その文章の価値が低いとみなされたからだと私は思っている。

 人格を攻撃するのではなく、人格は尊重しつつも、相手の考えや行為に異論があれば、異論としてぶつけることで足りる。相手の考えを矯正し、行為を正し、更生させるような使命を帯びているのなら別だが、そうでないなら、相手の人格に踏み込んで非難を浴びせることは余計なおせっかい以上の悪質な働きかけだ。もっとも、そのような使命を帯びているなら、そもそもネットや冊子という媒介上で行うのではなく、本人に直接働きかけなさい、ということになる。

 そういう意味で、「ニュース日記」のライブドア社長攻撃は、そもそも意図がはっきりしていなかったことに発端がある。堀江社長を攻撃する根拠の前に、その意図を読者にまったく伝えていないことが、大きな原因となっていると私は考える。「ニュース日記」に反論するブロガーは、編集長に対して、その意図を推測し、あるいは邪推し、それを根拠として辛らつな攻撃コメントを残しているものがある。結局、編集長がなぜ堀江社長に対してそんなことを書こうとしたのか、どこをどう読んでもその意図が見当たらないのだ。何をしたかったのか。堀江社長のファンに対して「君たちはだまされているから、ライブドアには近づくな」とでもいいたかったのか。もしそうだとしたら、それは「小さな親切大きなお世話」であり、編集長の書いた文章など捨て置くだけだ。何の価値も無い。

 ここまで、文章の価値と、書く行為の価値という視点で書いてみた。備忘録や日記、そして個人の印象を表示するタイプのブログに対してではなく、ある事象について論じ、共感を求め、あるいは対論を求めるタイプのブログに限定していることを書き添えておく。

 さて、あざらしサラダさんとyodaway2さんの対談は、次にトラブルの原因についてこう指摘している。
あざらしサラダさん
ネットでの争いごとは、意外とそのような「誤解が増幅された結果」というケースが多いのではないでしょうか。


yodaway2さん 
何かを伝え、共感を得たい――、これがネット、ブログで発信を試みる人にとって、多く共通しているホンネであるとすれば、そのホンネを守りながら、それでいて自分の殻を破ってもいかなければならないように思います。


 論陣を張るタイプのブログは、少なからず自己実現の願望を反映していると考えることができる。yodaway2さんが指摘しているように、自分のホンネを披露しているのだから、その文章は自分自身なのだ。自己実現の結果を非難されれば、発信した側は不快感を感じるだけではなく、自分を守る防御の反応を示し、攻撃的になるだろう。その応酬が実は、あざらしサラダさんが指摘しているように「誤解が増幅された結果」であることが多い。「批判」と「誹謗」の違いさえわきまえる(あざらしサラダさん)こと、自分の殻を破ってもいかなければならない(yodaway2さん)ことが指摘されているが、私もまったく同感である。そこで、そのことについて少々考えを述べたい。

 論文の世界は批判(非難ではなくて学術でいう批判)の応酬で、相手が立てた根拠にメスを入れ、その観点で迫るなら、他の根拠がふさわしいと斬ったり、あるいは同じ事象を捉えていても、抜け落ちている観点を指摘し、論の進行方向に誤りがあると斬ったり、それはそれは大変な世界である。学術論文に価値があるのは、そうした全方向的な、全段階におよぶあらゆる批判的考察を経て、多くの批判が跳ね返されるまで確実性を持った文章であるからである。

 社会科学の論文の世界は、そのテーマを取り上げた理由に始まり、論者がどの分野のどの事象にスポットをあて、この論文はここからここまでについて、こういう観点で迫っていく、と宣言することから始まる。守備範囲を限定するから、守備範囲を超えた批判はすでに退けられているし、各段の結論を導き出す根拠が示され、各段の一つ一つの確実性が高まって結論を導くので、非常に堅固なつくりとなっている。

 文章の理想は、守備範囲を明確にし、この確実性の高さと堅固なつくりを前提とすることだと私は考える。

 ブログにおいても、私はまず、論陣を張るには、自分は自分が知りえた範囲でのみ、事実を把握している、ということを、前提として認識しておく必要があると思う。自分の思惟が及んでいないエリアはまだまだ無数に広がっているわけで、自分が把捉した狭いエリア内でこの論を展開することを謙虚に認識することが、論陣のはじめの一歩である。

 したがって、自分がまだ見えていなかったエリアからの指摘には謙虚に受け止める必要があるし、場合によっては自身が展開した論を修正する必要を受け入れる柔軟さが求められるだろう。

 誤解が増幅されるケースは、

1.自分の書いた文章の「守備範囲」が明らかでない
2.根拠が示されていない
3.結論を導く際に、あくまで「自分にとっての」という前提を忘れている(普遍妥当的な結語が災いしている、結果として考えの押し付けになっている)
4.客観性に乏しく、あまりに主観的すぎる

 これら4点だろうか。もちろん相互に関連するけれども。

 書き手がこの4項目を意識し、価値の高い文章を目指し、文章を少しでも堅固な作りにしようとし、そのために慎重になり、謙虚になる、ということが重要で、読み手も、それだけの素養を備えることが望まれると思う。

 これに関連して、事実認識と評価の違い、主観と客観の問題については、次回改めて書こうと思う。

by cogno_eb2 | 2004-09-03 15:00 | 社会学的考察

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