2009年 08月 27日 ( 2 )   

認識→評価 客観と主観の構造(7)   

 これまでのマス・メディアは、情報発信の手段を独占的に所有することによってある種の公共性を備えてきた。しかし、今日ではHP、Eメール、掲示板、ブログといった情報発信ツールは廉価かつ手軽であり、情報発信の敷居は低くなったため、各個人がいかようにも表現できる無規制的な新しい“メディア”である。

 今日では多くのネットユーザーがこれらのツールを使用しており、インターネット上では、かつてのメディアが担ってきたある種の公共性という概念すらなくなってしまっている。

 インターネットの普及は生活者に情報発信のツールを与えるに至ったが、HPやブログなどを運営する個人の取材力は限られており、既存のマス・メディアの情報を介してニュースを知り、そのニュースに味付けをした意見をインターネット上に公開するに留まるケースが圧倒的に多い。

 これはすなわち、情報の多くはサイト運営者によって価値判断が下された情報であることを意味し、我々がインターネットを介して接する情報の多くが、既にある価値理念によって切り取られた事実、そしてそれに対するサイト運営者によって価値判断された“考え”なのである。

 このようなインターネットにおける現状は、時として大きな感情の渦を作ることになる。ややもすれば大きな感情の対立が生じ、敵対意識が増幅され、価値理念の激しいぶつかりあいが起きる。ここでは、自己の当初の評価を省みる“冷静”で“客観的”な姿勢は失われ、価値理念にさかのぼった埋めようの無い対立が引き起こされるため、高度情報化社会におけるHPやブログ等のツールによるコミュニケーションに対しては充分な注意が必要である。

「認識→評価」→「再認識→視野の拡大」→「新しい価値の発見」という螺旋状の発展形態のうち、最初の「認識-評価」の段階で終結し、さらには、自己の当初の評価を省みるどころか、感情の増幅によって客観性が失われることもある。これでは、螺旋状の発展など望めない。

 これまで指摘した事項は、端的に言えば「認識-評価」の段階で留まり次の段階に至っていないことから、螺旋型的発展の機会を失い、「認識-評価」の段階で個人主観が増幅・増強されるのみで、輪廻もしくは生起と終息の繰り返しに陥っている状態である。

 ここで対象としてきた「人」は、職業人ではなく私人である。職業的な制約や準拠集団からの制約等を考慮しない、いわばプライベートな時間における私人である。ここでは高度情報化社会における、自己表現欲求にのみ基づいた私人を対象としているので、その目的は“ただ自己表現すること”であり、議論の結果を利益や名声の獲得等に結びつけるような、また、議論の結果をなんらかの成果に結びつける問題解決型の関心に貫かれているわけではない。

 これを自然状態の評価者とここではひとまず表現するが、この認識構造をもつ「自然人」が、インターネットといったバーチャル空間ではなく、職業組織や教育組織などの半ば義務的な所属集団に加え、サークルや知人のネットワークといった任意の所属集団等、なんらかの準拠集団に所属している間は、その集団がもつ目的観を自己において消化し、成果志向の具体的目標が与えられ、なんらかの具体的な行動を行わなければならない。

 「自然人」そのままの振る舞いは認められず、所属する集団の価値理念や目標に基づいた行動をとらなければならない。私人では自然状態であるが、準拠集団に所属する(広義の)組織人としては、その集団が必要とする行動をとることが要求されているのである。

認識→評価 客観と主観の構造(8)へ続く
[PR]

by cogno_eb2 | 2009-08-27 23:25 | 社会学的考察

認識→評価 客観と主観の構造(6)   

以上のことから、次の3段階の行為を行っていると考える。

1.直観的問題関心の喚起(ほぼ同時に直観的評価を行っている)
2.直観的評価を裏付けるため、相互主観の領域から個人主観に関連した情報を検索し、直観的問題関心を補う.
3.相互主観の領域での自己表現欲求に基づいてコミュニケーションを行う.

 これまで、下田の科学的認識の四段階をヒントに、それと対応させる形で生活世界の行為者がどのように「認識-評価」を行うかを論じてきた。本稿は、科学者の四段階と対置する形で生活世界の行為者の認識の3段階が存在する、と言いたいのではない。

 下田の四段階のうち、第一、第二段階において研究の対象となっている生活世界の“理解可能な相互主観”が、どのように形成されているかを考察した。したがって、生活世界の行為者の認識の三段階は、下田の四段階の下部に位置し、連続していると考える。これはすなわち、生活世界の行為者の認識は、下田のいう研究者の段階の認識に連続的に達することができ、それを可能とするのは生活世界の行為者の意欲次第である、とのスタンスである。

 ウェーバーが科学者に求めた内的整合性と明晰性の追求、そして責任倫理は、一般の行為者にとって無関係なものでは決してなく、科学者に望まれるほどのレベルではないにせよ、それらが一般の行為者が自らの「認識-評価」の姿勢の軸となることによって、行為者が持つ価値理念やこれまで培ってきた認識類型などを省みて、自らのうちで自らを客観視することが可能となる。

 先に示した3段階の第2段階で分かれるパターンのうち、前科学的直観の段階で収束する程度の関心であれば、自身の認識類型を螺旋型的に発展させるような重大な内省を伴う必要もなく、影響力は少ない。

 またこの段階での、より広いエリアでの妥当性を求める行為に転ずるほど大きな関心であれば、重大な内省を伴う可能性を残し、次の段階へ進む。

 最終段階ではまた二つに分かれるが、異なる評価に対して、自己の評価と同類の評価以外に関心を持たないものは、重大な内省のチャンスを逃し、自己の当初の評価に固執して、自身の認識類型を螺旋型的に発展させる道を閉ざしてしまう。結局、自身で自己を客観化できる意識をもつことができる者にのみ、螺旋型的発展はなされる。

 これはリアル・コミュニケーションにおいては「社会化の過程」として簡素に表現されてしまうだろう。経験をつみ社会化が進めば特に大きく問題視されるような要素はないことと考えられるかもしれない。

 しかしながら、今日の社会は高度情報化社会であり、コミュニケーションの手段は必ずしも対人に限られない。むしろ、高度情報化社会においてはバーチャル・コミュニケーションの機会も大幅に増加し、バーチャル・コミュニケーションにおける「認識-評価」は、「人」に対して特殊な影響をもたらし、特殊な事件も起きるようになっている。

 高度情報化社会は、インターネットの登場以来、数々のメリットと同時に情報の氾濫をもたらした。インターネットのバーチャルな空間においては、国境すら越えたグローバルな広がりの中で、自由にそして手軽に自己表現ができるようになり、情報を利用する側の認識力や判断力が問われるようになった。インターネット上に掲示されている情報が必ずしも真ではないことは常識で、どの情報を採用し、どの情報に基づくかについては自己責任である。

 インターネットが普及し始めたころ、アメリカの教育現場では、あるレポートの課題に対し、インターネットである記事を閲覧したある子どもがナチスを肯定し評価するレポートを提出したとして話題になったことがある。インターネットに掲示される情報の解析力や判断力が低い者にとっては、インターネット上の情報の氾濫は、認識類型を形成するにあたって脅威ともなる。

認識→評価 客観と主観の構造(7)へ続く
[PR]

by cogno_eb2 | 2009-08-27 00:50 | 社会学的考察