カテゴリ:社会学的考察( 14 )   

認識→評価 客観と主観の構造(8)   

 このように、我々の生活の上では、集団に所属することで、自然状態には何らかの制御がかかっているともいえるのであるが、言い換えれば、自然状態の原因は「認識-評価」の段階での目的観の欠如であり、成果志向の欠如である、ということができる。

 すなわち、目的意識や成果志向を持ち合わせた、問題解決型の意識や意欲を失えば、人はたちまち自然状態にもどる、ということもできる。「認識-評価」から「創価」の螺旋型的成長サイクルに入るためには、目的意識や成果志向の意識を持つことが重要であり、自己の当初の個人主観的認識を、目的と予想される成果から客観的にとらえなおすことが求められるのである。
 
 目的意識は価値理念に基づいて形成され、成果志向の意識は、成果・結果を客観的にとらえることを求め、その結果、我々は因果関係をさかのぼり自身の認識過程や他者の認識過程を理解することができ、それは価値理念にフィードバックされ、自身の価値理念に影響を与える。

 我々は、目的意識と成果志向の意識をもつことで、自身を自発的創造のサイクルに突入させることができるのであり、この過程こそが価値創造の過程である。先に引用した下田の指摘のように、この自発的創造性によって外化された知識もまた理解可能な相互主観の“場”に蓄積され、それを内在化して共有され、認識主体の価値理念に影響を与える、という螺旋型的な成長サイクルとなる。

 人は、自然状態では螺旋型的成長サイクルにはなかなか入れない。組織は、人に備わる自発的創発性をいかに引き出し、いかに効率的に螺旋型的成長サイクルにのせ、成果を得ることができるかを不断に追求する必要がある。しかし組織は、いったん構築されたなら、硬直化し、停滞する負の側面を持ち合わせており、組織の不断のイノベーションは重要なテーマでもある。

 組織は人の集合であり、組織の不断のイノベーションは、すなわち組織の構成員の不断のイノベーションでもある。現代経営学が経営管理者層に「適切な価値判断と意志決定をしていく能力」が求められていると指摘し、あるいは組織的対話・企業内学習と戦略的提携・企業間学習の必要性を指摘しているのは、まさにそこに着目しているからである。

認識→評価 客観と主観の構造(9)へ続く
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by cogno_eb2 | 2009-08-29 00:08 | 社会学的考察

認識→評価 客観と主観の構造(7)   

 これまでのマス・メディアは、情報発信の手段を独占的に所有することによってある種の公共性を備えてきた。しかし、今日ではHP、Eメール、掲示板、ブログといった情報発信ツールは廉価かつ手軽であり、情報発信の敷居は低くなったため、各個人がいかようにも表現できる無規制的な新しい“メディア”である。

 今日では多くのネットユーザーがこれらのツールを使用しており、インターネット上では、かつてのメディアが担ってきたある種の公共性という概念すらなくなってしまっている。

 インターネットの普及は生活者に情報発信のツールを与えるに至ったが、HPやブログなどを運営する個人の取材力は限られており、既存のマス・メディアの情報を介してニュースを知り、そのニュースに味付けをした意見をインターネット上に公開するに留まるケースが圧倒的に多い。

 これはすなわち、情報の多くはサイト運営者によって価値判断が下された情報であることを意味し、我々がインターネットを介して接する情報の多くが、既にある価値理念によって切り取られた事実、そしてそれに対するサイト運営者によって価値判断された“考え”なのである。

 このようなインターネットにおける現状は、時として大きな感情の渦を作ることになる。ややもすれば大きな感情の対立が生じ、敵対意識が増幅され、価値理念の激しいぶつかりあいが起きる。ここでは、自己の当初の評価を省みる“冷静”で“客観的”な姿勢は失われ、価値理念にさかのぼった埋めようの無い対立が引き起こされるため、高度情報化社会におけるHPやブログ等のツールによるコミュニケーションに対しては充分な注意が必要である。

「認識→評価」→「再認識→視野の拡大」→「新しい価値の発見」という螺旋状の発展形態のうち、最初の「認識-評価」の段階で終結し、さらには、自己の当初の評価を省みるどころか、感情の増幅によって客観性が失われることもある。これでは、螺旋状の発展など望めない。

 これまで指摘した事項は、端的に言えば「認識-評価」の段階で留まり次の段階に至っていないことから、螺旋型的発展の機会を失い、「認識-評価」の段階で個人主観が増幅・増強されるのみで、輪廻もしくは生起と終息の繰り返しに陥っている状態である。

 ここで対象としてきた「人」は、職業人ではなく私人である。職業的な制約や準拠集団からの制約等を考慮しない、いわばプライベートな時間における私人である。ここでは高度情報化社会における、自己表現欲求にのみ基づいた私人を対象としているので、その目的は“ただ自己表現すること”であり、議論の結果を利益や名声の獲得等に結びつけるような、また、議論の結果をなんらかの成果に結びつける問題解決型の関心に貫かれているわけではない。

 これを自然状態の評価者とここではひとまず表現するが、この認識構造をもつ「自然人」が、インターネットといったバーチャル空間ではなく、職業組織や教育組織などの半ば義務的な所属集団に加え、サークルや知人のネットワークといった任意の所属集団等、なんらかの準拠集団に所属している間は、その集団がもつ目的観を自己において消化し、成果志向の具体的目標が与えられ、なんらかの具体的な行動を行わなければならない。

 「自然人」そのままの振る舞いは認められず、所属する集団の価値理念や目標に基づいた行動をとらなければならない。私人では自然状態であるが、準拠集団に所属する(広義の)組織人としては、その集団が必要とする行動をとることが要求されているのである。

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by cogno_eb2 | 2009-08-27 23:25 | 社会学的考察

認識→評価 客観と主観の構造(6)   

以上のことから、次の3段階の行為を行っていると考える。

1.直観的問題関心の喚起(ほぼ同時に直観的評価を行っている)
2.直観的評価を裏付けるため、相互主観の領域から個人主観に関連した情報を検索し、直観的問題関心を補う.
3.相互主観の領域での自己表現欲求に基づいてコミュニケーションを行う.

 これまで、下田の科学的認識の四段階をヒントに、それと対応させる形で生活世界の行為者がどのように「認識-評価」を行うかを論じてきた。本稿は、科学者の四段階と対置する形で生活世界の行為者の認識の3段階が存在する、と言いたいのではない。

 下田の四段階のうち、第一、第二段階において研究の対象となっている生活世界の“理解可能な相互主観”が、どのように形成されているかを考察した。したがって、生活世界の行為者の認識の三段階は、下田の四段階の下部に位置し、連続していると考える。これはすなわち、生活世界の行為者の認識は、下田のいう研究者の段階の認識に連続的に達することができ、それを可能とするのは生活世界の行為者の意欲次第である、とのスタンスである。

 ウェーバーが科学者に求めた内的整合性と明晰性の追求、そして責任倫理は、一般の行為者にとって無関係なものでは決してなく、科学者に望まれるほどのレベルではないにせよ、それらが一般の行為者が自らの「認識-評価」の姿勢の軸となることによって、行為者が持つ価値理念やこれまで培ってきた認識類型などを省みて、自らのうちで自らを客観視することが可能となる。

 先に示した3段階の第2段階で分かれるパターンのうち、前科学的直観の段階で収束する程度の関心であれば、自身の認識類型を螺旋型的に発展させるような重大な内省を伴う必要もなく、影響力は少ない。

 またこの段階での、より広いエリアでの妥当性を求める行為に転ずるほど大きな関心であれば、重大な内省を伴う可能性を残し、次の段階へ進む。

 最終段階ではまた二つに分かれるが、異なる評価に対して、自己の評価と同類の評価以外に関心を持たないものは、重大な内省のチャンスを逃し、自己の当初の評価に固執して、自身の認識類型を螺旋型的に発展させる道を閉ざしてしまう。結局、自身で自己を客観化できる意識をもつことができる者にのみ、螺旋型的発展はなされる。

 これはリアル・コミュニケーションにおいては「社会化の過程」として簡素に表現されてしまうだろう。経験をつみ社会化が進めば特に大きく問題視されるような要素はないことと考えられるかもしれない。

 しかしながら、今日の社会は高度情報化社会であり、コミュニケーションの手段は必ずしも対人に限られない。むしろ、高度情報化社会においてはバーチャル・コミュニケーションの機会も大幅に増加し、バーチャル・コミュニケーションにおける「認識-評価」は、「人」に対して特殊な影響をもたらし、特殊な事件も起きるようになっている。

 高度情報化社会は、インターネットの登場以来、数々のメリットと同時に情報の氾濫をもたらした。インターネットのバーチャルな空間においては、国境すら越えたグローバルな広がりの中で、自由にそして手軽に自己表現ができるようになり、情報を利用する側の認識力や判断力が問われるようになった。インターネット上に掲示されている情報が必ずしも真ではないことは常識で、どの情報を採用し、どの情報に基づくかについては自己責任である。

 インターネットが普及し始めたころ、アメリカの教育現場では、あるレポートの課題に対し、インターネットである記事を閲覧したある子どもがナチスを肯定し評価するレポートを提出したとして話題になったことがある。インターネットに掲示される情報の解析力や判断力が低い者にとっては、インターネット上の情報の氾濫は、認識類型を形成するにあたって脅威ともなる。

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by cogno_eb2 | 2009-08-27 00:50 | 社会学的考察

認識→評価 客観と主観の構造(5)   

 本稿の関心では、主体者を研究者ではなく「人々の日常で客観化されている世界」に生きる「人」であるので、次のように分類できると考える。

 第一は、前科学的直観の段階で収束する関心である。第二は、前科学的直観から、より広いエリアでの妥当性を求める行為に転ずる関心である。

 前者は家庭や職場といった自身が所属する集団において、必ずしも価値理念の相違を解決する必要のない関心であり、うわさ話やニュースの感想程度のもので、仮に異なった捉え方をした複数の行為者がいても、妥当性根拠にさかのぼって相違を解消する努力を必要としないレベルの情報・知識を取り扱っているケースである。

 先の例でいえば、増税のニュースを聞いて「困ったものだ」とひとしきり話題にして、それで終わるケースだ。

 第二は、マス・メディアやインターネットの情報に対して「主観的な“評価”」を下し、それがマス・メディアの報道やインターネットにおける情報とは異なった評価であったり、同じテーマでも角度が異なるなどの差異が生じた場合、それが自己表現の欲求と結びつき、関心を呼び起こす元となった情報との差異を表現する行為となるケースである。

 また先の例でいえば、増税のニュースに対し、政府が計画している増税の経緯と中身をもう少し詳しく調べ、新しく得た情報をもとに、増税は仕方が無い側面があるが、現在政府が計画している税率をもう少し下げよ、と考えが具体的になったり、マスコミやネットなどで主張されている様々な意見と議論したりするケースだ。

 下田のいう「社会的現実の探求」とは少々次元が異なるけれども、この第二のケースにおける行為者は、自身が見つけた差異を正当化するため、あるは、妥当性を証明するために、当初に下した「主観的な“評価”」を裏付ける事象やデータを検索する行動をとる。

 さて、科学者・研究者の科学的認識は、第3段階に入り、研究者の関心に基づくモデル化の段階になるが、我々のように生活世界にある行為者は第二段階からどのような段階に移行するだろうか。

 生活世界にある行為者は、自身の直観的な問題関心に基づいて、最初の価値判断(評価)を行うが、自身の価値判断を他者に訴え、他者とコミュニケーションを行おうとする段階で、自己の価値判断の正当性根拠を検索し、ある種の理論武装を行おうとする。

 その次の段階においては、ここでもやはり2パターンに分かれる。第一は、自己の主張の正当性根拠を示しつつも、他者の主張に耳を傾けることで自身の当初の価値判断に変更を加え、自己の主張を強化、または自己の主張の変更を行う。第二は、自己の主張とは異なる情報に対しては、あくまで当初の自己の直観的評価を譲らず、異なる主張に耳を貸さないか、強く攻撃する。

 行為者は、社会化の過程で後者から前者へと進化すると一般的に考えられるものの、それは直接的な対面でのコミュニケーションにおける行為を想定しており、今日のようなバーチャルなコミュニケーションの場においては必ずしもそうとはいえない現象が起きている。

 生活世界における行為者の第三階においては、研究者の第三段階とは質的にかなり異なるものの、「モデル化」に近い作業を行っている。これは、あくまで個人主観の内側においてではあるが、これまでの自身の価値理念をさらに強固にするか、もしくは、変更・修正をして認識の視野を広げていくかの別はあるにせよ、学習することによって自身の認識のパターンを作り上げていく。

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by cogno_eb2 | 2009-08-26 00:52 | 社会学的考察

認識→評価 客観と主観の構造(4)   

 我々の生活世界は、単に個人主観的世界の乱立、または、個人主観的世界の無関連な並列ではなく、絶えず他の個人主観との相互連関の中で、「言葉によって対象化され、言葉の意味によって客観化」された“理解可能な知識層”を共有して成立している。そして、その“理解可能な知識層”は,引用にあるとおり「人間の自発的創造性による外化」が「一種の螺旋型的進化をとげていく」というメカニズムにあり、まさに、価値創造原理の一端を示しているものと解釈できる。

 人はこの世に生を受けて後、その所属する社会に既に存在している常識や価値理念(“理解可能な知識層”)を、実証主義がいうように、まさに“外在的”に認識し、自身の常識や価値理念を形成していく。

 人は、社会化の課程において、自らの経験を通して認識を深め、そして領域を広げ、自身の常識や価値理念を形成していく。社会生活における新しい発見やそれまでに培ってきた価値理念に変更を迫られるような経験は、下田のいう「螺旋型的」に進化していく。

 「人」はマスコミの報道やインターネットでの話題、所属する集団での関心などから得た間接的な知識をもとに様々に問題関心を生じさせる。あるいは自身の生活上の直接的な出来事をもとにした問題解決型の関心などもあろう。

 我々はそれらの問題関心を設定する際、ある程度の漠然とした予備知識をもっている。問題関心をもった主体者の「主観的な“直観”」をベースにして、主体者は自身が既に持ちえている情報をもとに、「主観的な“評価”」を一端は下している。

 たとえば、政府が増税を検討しているというニュースが流れたとき、まず自身の生活が苦しくなることを理由に増税は反対という立場を示し、なぜ増税を検討しているのかという詳細な情報を検索する前に、政府がまず財政建て直しの努力をせずに国民に増税を求めることは順序が異なる、といった、自身のその時点で持ち得ている価値理念に立脚して、「主観的な“評価”」の根拠を並べることができている。

 下田は次の「2.前科学的理解の段階」において、研究者は、自身が前科学的直観の段階で形成した問題意識に関連する社会的現実の探求をはじめる、としている。

 この段階で探求するものは、「人々が常識的意味において客観化した日常言語的に表現している諸概念」であり、科学者自身の言葉による概念ではない、としている。

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by cogno_eb2 | 2009-08-25 00:18 | 社会学的考察

認識→評価 客観と主観の構造(3)   

 下田(1989)はウェーバーの「客観性」を分析し、次のように指摘する。

「神々の争う価値理念の多元的状況に置いては、普遍妥当的な唯一の価値理念の絶対性を主張することはできず、それ自体解消しえない問題であるがゆえに、個々の認識主観の“主観的な”価値理念によって整序されるところの諸観点(すなわち価値理念)を常に明確にして、自己の現実認識にたいして、あるいは自己の現実解釈に対して責任を負う、誠実な学問態度をヴェーバーは要請しているのである。

 その意味ではヴェーバーのこの要請は、認識主観における“自己責任の要請”であったと言うことができるであろう。言い換えるならば、それは“価値理念の主観性”を現実認識の前提とせよと主張することによって、特定の価値理念の普遍性や絶対性を拒否するという意味で、“価値への自由”として価値自由(Wertfreiheit)の主張であったと言うこともできると思う。

 ヴェーバーが極力避けようとしたのは、学問における無前提性、自己の価値観点をできるだけ曖昧にして“事実をして語らしめ”ようとする偽の価値自由的態度であって、研究者は没価値的であれということでは決してなかった。それはいわば、学者に対する“責任倫理”の主張であったとも言うことができよう。」(下田直春『増補改訂 社会学的思考の基礎』(新泉社 1989)pp241-242)


自身が準拠している価値理念の影響をうけて、社会的事象は認識される。認識された結果と、自身が準拠している価値理念との関連が内的整合性をもち、明晰に説明されなければ、その認識者の認識結果が妥当であるか否かの判断すらできない。他者によって把握され得ない認識結果こそ主観的であり、どのような価値理念に準拠していても構わないが、その価値理念と認識結果が明晰な説明により他者においても把握されることが、客観的なのである。

 社会科学的に「認識」を捉えようとすると、ウェーバーが示したごとく、認識する際にすでに認識者の主観が入り込むため、(主観から離れたという意味での)客観性とはいえないのではないかとの難があることは既に述べた。

 ウェーバーはカオスの中で認識者の個人主観(価値理念)に関連付けられたもののみが切り取られ、認識対象として当該認識者に認識されるとしたが、下田はこれを修正し、一定の類型概念を内的に構築し、それに基づいて等同意識・差別意識をもって判断する段階が必ずあるとしている。これは牧口の認識観にも共通することである。下田は、常識のレベルで、例えば「帽子」という概念に、認識結果が合致するか否かの区別をすると例示し、人々の間に共通化されている理念や常識の存在を指摘している。

 現象学的社会学ではこれを相互主観とし、個人主観が自己の内部でのみ整合性をもつような、その意味で他者が理解できないような狭小の個人主観と、実証主義社会学でいう他者である社会的事実との二元論ではなく、個人主観と個人主観が相互の理解によって共有化しているとした。下田は現象学的社会学の相互主観の規定を批判的に考察し次のように規定し直している。


「科学者は自らの問題意識に導かれて社会的現実の諸問題の解明に向かうのであるが、その現実はすでにそれに関わる人々によって経験的に認識され、言葉によって対象化され、言葉の意味によって客観化された現実である。客観化された意味は、人々の常識として社会化過程を通じて個々人の意識のうちに内在化され、個々人の意識は他者たちとの相互作用過程の中で行為によって外化される。そこには、個々人の主観的世界と他者たちとの相互主観的世界との間に一連の知識サイクルがあると見てよいのである。社会的現実はその発端からしてまさに相互主観的であり、常識によって理解可能な世界としてそこにあるのである。」(前掲書p152)

「人間の行為によって不断に外化されるものが必ずしも常識化された伝統的なものばかりではなく、人間の自発的創造性による外化も常に存在するということ、そしてこれもまた対象化され客観化され内在化されていくということ、従ってそのサイクルは人間の自発的行為によって一種の螺旋型的進化をとげていくものであることを明らかにしておかなければなるまい。」(前掲書pp152-153)


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by cogno_eb2 | 2009-08-23 23:08 | 社会学的考察

認識→評価 客観と主観の構造(2)   

 実証主義社会学はいわば“価値の無菌室”から社会的事象を描写し、人間の相対的な認識・評価から離れて外在する社会的事実を対象とするが、ウェーバーは、多様な価値観が存在する社会そのものに立脚しながら、意味理解という形で社会を科学的に捉えると考えた。

 科学は主観的な言明の積み重ねでは成立しない。科学的言明は客観性が保たれてこそ“科学的”と称され、存在価値を生む。このことはウェーバーにおいても同様である。

 しかし、社会的事象に対する認識においては、行為主体の認識主観が紛れ込み、あるいは、その認識主観によって拘束され、自然科学に対する科学者のごとく普遍妥当性を得るには至らないとの主張も起こりうる。つまり、認識主観が拠っている「価値」から「自由」にならなければ、社会事象に対する客観性は確保できないとの主張である(前掲富永の分類5.)。

 それが妥当であるなら、我々は社会事象を認識する際に、自身に培われた価値観や価値性向から離れ、あるいはそれを捨て去り、社会事象を没価値的に把捉しなければならないことになる。果たして、社会事象に対して没価値的に事実判断することが可能であろうか。

 ウェーバーは「信念をもたないことと科学的な「客観性」との間には内的に何の縁もゆかりもない」とし、没価値的に対象を認識し普遍妥当の真理を見出すことで「客観性」を確保するという立場に反論する。


「実践的な社会科学の場合、何よりもまず「一つの原理」を樹立し、これを科学的に妥当なものとして論証することが肝要であり、そうすれば、この原理から実践的な個々の問題を解決するためのいくつかの規範が一義的に導きだし得る、ということが専門家によってさえも相変わらずのまま信じられているけれども、これは全く素朴な考え方である。」(「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」講談社学術文庫 p28)


 ウェーバーは、人間の認識は主観的であるであることを前提とし、その主観的な認識は、各認識主体が内的に保持する価値理念や信仰に基づいているとする。社会事象は多種多様な姿を見せる複合的事象であるから、その価値理念や信仰に紐付いた関心がなければ、複合的事象の一側面を切り取ることすらできない。

 社会事象の認識は、多様な価値観の混沌である複合事象を、認識主観の価値理念に基づいて切り取り、どのような価値理念から認識結果が導き出されたのかの因果関係を“客観的に”示すこと、つまり、その個別具体の事象と認識結果との因果関係こそが社会科学の対象であり、社会科学的な認識の要請とは、主観的な認識の過程を客観的に行えとの要請である。

認識→評価 客観と主観の構造(3)へ続く
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by cogno_eb2 | 2009-08-22 22:44 | 社会学的考察

認識→評価 客観と主観の構造(1)   

 現代日本社会は、1950年代に危惧された大衆社会の様相を呈しており、情報化社会の出現は、「智民」どころか「サイバー・マス」あるいは「ネオ・マス」が出現させたように思う。ここでは、古典社会学をヒントに客観と主観の構造について、記しておきたい。

 デュルケムは、社会に存在している種々の言明を、それぞれの言明が生成される過程の手続きを要件に、一般的言明と科学的言明に分類していると解される。

 デュルケムはまず、科学的判断は我々が生活する日常的な社会において蓄積されている諸判断の結果(「通念」や「常識」という言葉で語られている)とは明確に区別されるべきものであるとし、後者のいわば“無反省な情念的・主観的印象”にとどまることのない、より洗練された判断、その結果としての言明を目指さなくてはならないとした。また、そのような認識の結果は社会通念や常識として形成されるモデルとは異なってくるとした。


「社会についての一科学が存在するとすれば、それは、種々の伝統的偏見のたんなる敷衍にとどまるべきではなく、一般人の眼に映じるのとは異なった仕方でものを見るようにさせることを予期しなければならない。というのは、およそ科学の目的は発見をなすことにあり、しかも、いっさいの発見は、多かれ少なかれ通念にさからい、これを戸惑わせるものであるからである。」(『社会学的方法の基準』岩波文庫p15)


 デュルケムは、社会学が一個の独立科学としてのアイデンティティを確立するため、社会における一般的な理念形成の方法や、社会学草創期の哲学的思考方法と差別化を図るため、それらの方法とは異なった、社会事象を認識者の外側に位置する「モノ」として位置付け、「モノ」を観察する自然科学者のように認識せよと訴えた。


「人々は、社会学的な対象にも哲学的思考の諸形式を適用することを根強い習慣としているので、右の予備的な定義のうちにもしばしば社会的事実についての一種の哲学を見いだす結果となった。(中略)筆者が目指したこと、それは、科学からもたらされる帰結に哲学的見地から予断を加えるのではなく、たんに、科学者が事実をあるがままにとらえ、他の事実と混同しないですむためには科学の扱うべき事実をどのような外的標識によって認識することができるか、を指摘することにあったのだ。」 前掲書p38


 デュルケムはこのように、一般的言明が生成する過程とは異なる過程を経て、社会的事象をモノのように観察する社会科学者によって編まれる言明こそが科学的言明であり、その言明が認識主観の外側に厳然として存在する社会の実像を示すことができると考えた。
 人間にとって外在的で拘束的な「社会的事実」を“客観的に”対象とすることが社会学の任務であるとデュルケムはいう。

 このとらえ方は、富永(1993)の分類する「実証主義」にあたる。富永は実証主義と理念主義に分類し実証主義の特徴として次の6点を特徴として挙げている(富永健一『現代の社会科学者』(講談社学術文庫1993)pp100-102)。

1.認識における客観主義
2.普遍化的経験主義
3.経験と論理の二元論
4.測定とデータ処理の科学的手続きの重視
5.科学的認識の価値・理念からの自由
6.科学一元論

 富永の分類によれば、デュルケムは、社会学第二世代に位置し、機能主義の潮流の祖である。


認識→評価 客観と主観の構造(2)へ続く
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by cogno_eb2 | 2009-08-22 01:29 | 社会学的考察

yotsuya67さんによる「投資の過去と未来」モデルに一言。   

yotsuya67さんのところで、なかなか面白いモデルが提示されている。

 最初に言っておきます。第5段階までは私も大いに納得しましたし、このような形でモデル化できるyotsuya67さんってすごいなぁ、と思いました。

 でも、第6段階と第7段階がちょっと残念です。レベルが異なります。

6.質の問題(?年後)
 国債による政府の資金調達が困難になり、このときに初めて痛みを伴う改革が否応なしに実施される。国民がそれに耐えるかどうかは、税率アップ、新税導入といった量的な面以外に、その時の政治家トップが信頼できるかどうかの質の問題になる。

7.コミュニティの力(?年後) 
 量的な価値あるものを見出す能力を高めた個人は、質的な価値も見つけ出す能力も高まっている。本当に信頼できるかどうか?について、個人は、
 ・政治家
 ・マスコミ
 ・ネットなどで信頼されている個人
 などを、見比べて選択することになる。相対的に政治家、マスコミよりも個人への信頼に重きが置かれるようになり、信頼できる個人を中心としてゆるやかなコミュニティにの重要度が増す。
政局の混乱による生活の混乱は、このコミュニティからもたらされる情報などでしのごうとする。 


 明らかに、投資家という枠を超えて、国民一般になってしまい、主人公が国民一般へとシフトした上で「国家と市民社会」とでも呼べるような領域で、最後の二段階を形成させています。

 最後の二段階は、明らかに問題が異なっていますね。急に政治的な問題になってます。投資家はどこへ行ったのでしょう?

 第6段階で、痛みを伴う改革を政府が断行し、それに対して国民がどのような経済活動を行うのか書かれていませんし、第7段階に至っては、厳しい生活をしのごうとする国民が描かれています。これは、第6段と第7段をまとめ、さらに、その、政府の厳しい舵取りの中で国民がどのように経済生活を営んでいくかを描くと良かったのではないでしょうか。

 少なくとも、政府の失政により、いくらコミュニティが発達しても、それと国民経済とは別物でしょう。

 私は社会学をやっていますので、経済のネタからいきなり社会学のネタに移行した感じで、違和感を覚えました。

 木村剛さんは、自らがネットコミュニティのリーダーになりつつあるからか、そのあたりに違和感は感じてないようでしたが。

 でも、最初に書きましたけど、このようなモデル化ができるyotsuya67さんはすごいなぁ、という感想は変わっていませんよ。
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by cogno_eb2 | 2004-11-09 15:43 | 社会学的考察

事実と真実<科学的言明と日常的言明> その2   

 “どれか一つの理論に含まれている事実が、それと対応する現象についてなされうる唯一の検証可能な命題である”ことは意味しない。そして「科学的理論の体系によって体現されている事実は、そこに含まれている具体的現象について完全に記述し尽くすものではなく『一つの概念図式の観点から』言明されたものにすぎない」。

 いうまでもなく、命題の現象との関係性はあくまで相対的である。それは、パーソンズが指摘しているように、命題表現は現象それ自体の実態の一部であり、科学はその切り取られた命題群を一定のルールのもとに構造化する。故に「いかなる現象も、省略法的意味においてしか『事実』とはいえないということが引き出される」と結論づけるのだが、ここにはもう一点明確にしておかなければならない事項がある。これもまた、もはや声を大にする必要もない事項かもしれないが、それはつまり、現象を命題化する際に認識者の認識主観がその成果に大きく影響を与えるということである。

 総じて「事実」の相対性は、第一に現象の命題化の時点において主観が作用するという(いかなるカラーで現象を把捉するかという)「質的側面」、第二に表現された個々の命題が“現象を完全に記述し尽くすものではない”という(現象それ自体との比率という点での)「量的側面」の二点において決定づけられる。

 それでは社会科学理論は(その基盤が流動的であるという意味で)相対的であろうか。パーソンズは相対性の「質的側面」と「量的側面」の難について次のように述べている。
 「一般的には、まず第一に、経験的事実に対する関心は、理論体系の論理構造によって方向づけられるだろう。事実に関わる[経験的]問題の重要さは、[理論]体系の構造に本来内在するのである。経験的関心といっても、それは、これらの[重要な]問題の解決に関連する限りでの諸事実に対する関心、ということになろう。理論はわれわれの知っていることが何なのかを定式化するばかりでなく、われわれが知りたいものは何なのか、つまり解答の必要な問いが何なのかについても教えてくれる。さらに、理論体系の構造は、ある問題に対する可能な解答には、どのような選択肢があるのかについても教えてくれる。もし疑うすべもない正確さで観察された事実がこの選択肢のいずれにも合致しないとすれば、再構成する必要があるのは[理論]体系それ自体なのだということになる。」


 パーソンズは「経験的事実に対する関心は、理論体系の論理構造によって方向付けられる」としているように科学の地平からスタートしているが、半ばそれと対置されると考えられている我々に身近な生活世界の認識地平から考察するとしても、「論理の構造は閉じている(完結している)」のである。そのように、生活世界における日常的コミュニケーションについて、「閉じた構造にある」と言われないのはこれらの点を認識していない認識者が圧倒的に多いというだけの問題であって、やはり生活世界にはそれ特有の論理の構造が存在するはずである。私は、多少ともコミュニケーション形態に「論理」の形態を認めるならば、認識地平を問うことなくコミュニケーションは論理構造のルールに則らなければならないと考える。

 「たしかにわれわれは、個々ばらばらで統合されていない断片的知識を持つことができるし、自分の関心に従ってさらに分解された断片的知識のうちに「真理」を認めることもできる。しかし、この種の知識は、本研究が関心を寄せているような意味では、決して「科学」を構成しないのである。科学が構成されるためには、これらの知識の断片が明確な理論体系に関連づけられて統合されねばならない。」


 我々はなにも生活世界を科学化し再構成する必要などは全くない。しかし、断片的知識を主観的に結合して「真理」を見出すべきではない。価値感情に単純に導かれたランダムな個人主観がランダムにそれを表出するのではなく、ある程度体系だった(その意味で正確な)観点や問題の解答を求める姿勢が要求されることになることが理解されるだろう。まさに「すべての経験的に検証可能な知識は―たとえ日常生活における常識的知識だとしても―必ずしも明示的にではないが、このような意味における体系的理論を含んでいる」のであり、我々はその再認識からスタートせねばなるまい。そして「その再認識」の結果、インターパーソナルコミュニケーションがより大きな集団全体へとその存在を示しまた影響を波及していくことを阻止する障害がまさにインターパーソナルコミュニケーションにおける「許容」そのものである、ことが理解されるはずである。

・・・・続く
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by cogno_eb2 | 2004-10-09 11:08 | 社会学的考察