カテゴリ:社会学的考察( 14 )   

事実と真実<科学的言明と日常的言明> その1   

 私は、もっとも基礎的かつ具体的な社会である日常の生活世界が「主観のカオス」であってはならないと強く感じるが、それらを整序する社会についての科学的言明が、日常生活から遊離した「難解で第三者的な評論」程度に映ってしまえば、その言明がいくら科学的価値・科学的真理を持つものでもその“基礎的”社会にとって無用の長物となってしまおう。我々の“言語”である日常的言明と我々にとってはいわば異次元とも思える科学的言明は、そもそも相互作用をもたらさない異なった言明であろうか。

 結論を先取りして言えば、高度に構造化された科学的命題においても、日常生活に蓄積された「智慧」(lore)であっても、「現象の描写」からスタートし関連づけるという点は共通である。そして科学命題と智慧は経験的に検証可能であるという点で共通する側面を持つ。従って、問題解決的な現象の描写という点で両言明は同次元に位置するはずである。その意味で私は両言明が真偽を軸にした判断を希求する点に立脚することで、その言明はおろか、当然のことながら真偽に対する姿勢にまで相互に影響しあうに至ると考える。

 しかしながら、実際の社会生活上にこのような相互作用は見られない。現代社会におけるメディアの発達は、ダイレクトに我々の社会生活の中に「現象の描写」を差し込むことを可能としたが、あふれる情報に埋没し情報の経験的な検証を困難とさせてしまうに至った。

 科学的言明は「事実」の積み上げによってのみ導かれる「事実」を語り、日常的言明は「真実」だと思われた事柄を語るものである。科学的言明はその意味で客観的であり、「真理」を表現する最も近い言明である。一方日常的言明は、それらいちいちの言明が100%正確な描写を伴っている必要性は必ずしも高くない。結果として「真実だと思われる」ことが得られたら、「真実」は巷にあふれるのである。そしてそのあふれた「真実」は誰に淘汰されるでもなく、「真実」として受け入れられた者のなかで生きていく。その主観性と一過性、そして非普遍性という性質の結果として「真実」の語とはかけ離れた「真実」があちらこちらで誕生するのである。科学的言明と日常的言明が共に「現象の描写」から始まり、かつ経験的に検証可能であるにもかかわらずこのように性質を異にする原因は「事実」「真実」「正確さ」といった言明の属性に関する観念にあることは言うまでもない。

 これらの関心について、今日では早くも古典の仲間入りをしたといわれるパーソンズの『社会的行為の構造』序章付論は、もしもこれを平たく表現するならばきわめて常識的となるかもしれないが、しかし、生活世界の中で必ずしも省みられているとはいえない重要な観点に言及している。パーソンズは、『社会的行為の構造』の中で「事実」の概念について「概念図式を用いてなされた現象に関する経験的に検証可能な言明」という定義を用いて説明している。彼が着目しているのは「現象に関する経験的に検証可能な言明」という箇所であり、「事実はそれ自体現象では全くなく、一つあるいはそれ以上の現象に関する命題である」として、現象そのものとある主体者によって表現された命題との関連性について言及している。彼はここですべての科学理論は事実および事実の関係についての言明によって作られるとしているが、これは科学理論に限られることではなく生活世界のコミュニケーション関係一般についても及ぶ内容を含むものと考えられる。
 
 先取りしてすでに述べたので繰り返しになるが、科学的言明は「事実」の積み上げによって導かれる「事実」のみを語り、また手続き的に反証の余地を残しているという点で客観性を確保し、より言明を精緻化しゆく構造を持っているが、我々は科学的言明のこの構造に大いに着目する必要があろう。 

・・・続く
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by cogno_eb2 | 2004-10-09 11:05 | 社会学的考察

ブログで建設的に議論する方法について考える(TB) その1   

 骨のある記事で私が注目しているあざらしサラダさんとyodaway2さんのお二方の豪華対談(!)にTBします。

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 あざらしサラダさんが指摘しているように
納得できる根拠を示さないまま相手の人格を一方的に否定するような記事を書くと、それに反発するコメントが多く寄せられる

という原理は確かにそのとおりだと思う。

 また
他人と意見交換することを意識して記事を書いているブログでは、記事を書く場合、コメントやトラックバック記事を書く場合それぞれにおいて、最低限のルールというか何らかの約束事が必要ではないか、と私は考えています。そうしなければ、誹謗や中傷のない冷静な議論は困難ではないでしょうか?

 とも指摘している。

 私もこの意見に賛成だ。私は、文章を書く、それも、公衆の面前に公開する文章を書く、という場合に、すでにルールが存在していると考えている。「人格攻撃」はタブーだ。根拠や理由を示したとしても、「人格攻撃」をしてしまえば、その文章の価値が著しく低下し、読むに値しない文章に落ちてしまうことを、書く側が肝に銘じるべきだし、そのような文章を公開したところで、そうは感じていない読者から一斉に非難されて駆逐されるだけだ。駆逐されれば、せっかくの「書いて公開する」という行為が無に帰してしまうのだ。
 
 「2ちゃんねる」が社会のアングラ程度の評価しか得られなかったのは、結局、その文章の価値が低いとみなされたからだと私は思っている。

 人格を攻撃するのではなく、人格は尊重しつつも、相手の考えや行為に異論があれば、異論としてぶつけることで足りる。相手の考えを矯正し、行為を正し、更生させるような使命を帯びているのなら別だが、そうでないなら、相手の人格に踏み込んで非難を浴びせることは余計なおせっかい以上の悪質な働きかけだ。もっとも、そのような使命を帯びているなら、そもそもネットや冊子という媒介上で行うのではなく、本人に直接働きかけなさい、ということになる。

 そういう意味で、「ニュース日記」のライブドア社長攻撃は、そもそも意図がはっきりしていなかったことに発端がある。堀江社長を攻撃する根拠の前に、その意図を読者にまったく伝えていないことが、大きな原因となっていると私は考える。「ニュース日記」に反論するブロガーは、編集長に対して、その意図を推測し、あるいは邪推し、それを根拠として辛らつな攻撃コメントを残しているものがある。結局、編集長がなぜ堀江社長に対してそんなことを書こうとしたのか、どこをどう読んでもその意図が見当たらないのだ。何をしたかったのか。堀江社長のファンに対して「君たちはだまされているから、ライブドアには近づくな」とでもいいたかったのか。もしそうだとしたら、それは「小さな親切大きなお世話」であり、編集長の書いた文章など捨て置くだけだ。何の価値も無い。

 ここまで、文章の価値と、書く行為の価値という視点で書いてみた。備忘録や日記、そして個人の印象を表示するタイプのブログに対してではなく、ある事象について論じ、共感を求め、あるいは対論を求めるタイプのブログに限定していることを書き添えておく。

 さて、あざらしサラダさんとyodaway2さんの対談は、次にトラブルの原因についてこう指摘している。
あざらしサラダさん
ネットでの争いごとは、意外とそのような「誤解が増幅された結果」というケースが多いのではないでしょうか。


yodaway2さん 
何かを伝え、共感を得たい――、これがネット、ブログで発信を試みる人にとって、多く共通しているホンネであるとすれば、そのホンネを守りながら、それでいて自分の殻を破ってもいかなければならないように思います。


 論陣を張るタイプのブログは、少なからず自己実現の願望を反映していると考えることができる。yodaway2さんが指摘しているように、自分のホンネを披露しているのだから、その文章は自分自身なのだ。自己実現の結果を非難されれば、発信した側は不快感を感じるだけではなく、自分を守る防御の反応を示し、攻撃的になるだろう。その応酬が実は、あざらしサラダさんが指摘しているように「誤解が増幅された結果」であることが多い。「批判」と「誹謗」の違いさえわきまえる(あざらしサラダさん)こと、自分の殻を破ってもいかなければならない(yodaway2さん)ことが指摘されているが、私もまったく同感である。そこで、そのことについて少々考えを述べたい。

 論文の世界は批判(非難ではなくて学術でいう批判)の応酬で、相手が立てた根拠にメスを入れ、その観点で迫るなら、他の根拠がふさわしいと斬ったり、あるいは同じ事象を捉えていても、抜け落ちている観点を指摘し、論の進行方向に誤りがあると斬ったり、それはそれは大変な世界である。学術論文に価値があるのは、そうした全方向的な、全段階におよぶあらゆる批判的考察を経て、多くの批判が跳ね返されるまで確実性を持った文章であるからである。

 社会科学の論文の世界は、そのテーマを取り上げた理由に始まり、論者がどの分野のどの事象にスポットをあて、この論文はここからここまでについて、こういう観点で迫っていく、と宣言することから始まる。守備範囲を限定するから、守備範囲を超えた批判はすでに退けられているし、各段の結論を導き出す根拠が示され、各段の一つ一つの確実性が高まって結論を導くので、非常に堅固なつくりとなっている。

 文章の理想は、守備範囲を明確にし、この確実性の高さと堅固なつくりを前提とすることだと私は考える。

 ブログにおいても、私はまず、論陣を張るには、自分は自分が知りえた範囲でのみ、事実を把握している、ということを、前提として認識しておく必要があると思う。自分の思惟が及んでいないエリアはまだまだ無数に広がっているわけで、自分が把捉した狭いエリア内でこの論を展開することを謙虚に認識することが、論陣のはじめの一歩である。

 したがって、自分がまだ見えていなかったエリアからの指摘には謙虚に受け止める必要があるし、場合によっては自身が展開した論を修正する必要を受け入れる柔軟さが求められるだろう。

 誤解が増幅されるケースは、

1.自分の書いた文章の「守備範囲」が明らかでない
2.根拠が示されていない
3.結論を導く際に、あくまで「自分にとっての」という前提を忘れている(普遍妥当的な結語が災いしている、結果として考えの押し付けになっている)
4.客観性に乏しく、あまりに主観的すぎる

 これら4点だろうか。もちろん相互に関連するけれども。

 書き手がこの4項目を意識し、価値の高い文章を目指し、文章を少しでも堅固な作りにしようとし、そのために慎重になり、謙虚になる、ということが重要で、読み手も、それだけの素養を備えることが望まれると思う。

 これに関連して、事実認識と評価の違い、主観と客観の問題については、次回改めて書こうと思う。
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by cogno_eb2 | 2004-09-03 15:00 | 社会学的考察

ブログのメディア性   

最近、「週刊木村剛」に影響を受けてます。

 木村さんが紹介されているブログのオーナーさんたちは、非常に示唆にとんだお話をされているんですねぇ。いや~、目が離せません。

 さて、ブログの将来性について考えてみました。十分な推敲はしていないので、おかしなところがあるかもしれませんが、UPします。

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『社会学的思考の基礎』(下田直春著 新泉社)の「科学的思考の四段階」からヒントを得て、ブログのメディア性について書こうと思う。

ブログのタイプとして、1.日記型 2.記事の紹介型 3.個人主観の発露型 4.相互主観形成型 の4タイプに分けられる。

●1.日記型
 ブログのオーナーが自分の生活の一部を紹介するタイプ。新聞や雑誌の記事へのリンクは少なく、自分でとった写真や生活上のエピソードが中心。
 ブログのオーナーを直接知っている人が常連さんとなり、盛り上がるケースと、同じような生活スタイルの人の共感を呼び、コミュニケーションの場ととなるケース。情報の根幹を生活においているので、いわゆる口コミ情報としてマーケティングへの影響を包含する。 
●2.記事の紹介型
 ブログのオーナーが関心を寄せた記事の紹介。新聞や雑誌の電子版へのリンクと、オーナーのショートコメント。
 関心が寄せられた記事の種類にもよるが、商品情報であれば口コミ情報に近く、また時事ネタであれば世論形成に近くなるが、記事へのリンクとかなり短いコメントにより形成されるので、1.や3.ほど影響力をもたない。
 ただ、膨大な数のbloggerがそれぞれの関心で記事を拾い上げるので、自分の持つ関心のみでは発見に至らなかった記事にふれるきっかけとなり、閲覧者の関心の幅を広げる効果をもつ。またブログのオーナーの個性を反映するので、匿名なコミュニケーションの場でありながら、ブログオーナーに親近感を持つ、といった、これまでのBBS系のコミュニケーションを超えるツールであると言える。

●3.個人主観の発露型
 ソースは新聞記事であったり雑誌であったり、TVであったりさまざまだが、ブログのオーナーが触れた情報に対して、そのオーナーが感じたこと、考えたことを発信するタイプ。2.が「こんなのあったよ」あるいは「ヴァーカ」程度のショートコメントであるのに対し、3.はリンクさせた記事に対してオーナーが感じた、あるいは考えた内容を披露するもの。
 リンクさせた記事に対して感じることは人それぞれなので、共感する他のオーナー・閲覧者や、逆にオーナーの考えに対し反論・異論を持つ者はコメントやTBを使ってコミュニケーションする。
 2.との違いは、形式的には本文とコメントの文章量で、実質的には他者に訴えかける意図があるかどうか。4.との違いは、文章量といった形式的な面に差異はないが、実質的な面で、ブログオーナー自身に議論の余地が確保されているかどうかになると考える。記事の捉え方、認識の前提、論の運び方が、たとえば非難一辺倒で、それにあい対する情報をもたらしても基本姿勢を変化させることのない、偏った姿勢であるようなもの。
 同一の記事に触れても、認識の基本前提によって、人は異なった反応を示すものである。その際、他者の異なった反応に対して攻撃的か寛容かによって3.と4.が異なると考えてもよい。

●4.相互主観の形成型
 ブログのオーナーが関心を抱いた記事に対して、オーナー自らの考えを示し、取り上げた件に対して他者の考えを吸収しながら思考を深めようとするタイプ。
 TBやコメントの集積の結果、オーナーが取り上げた件に対してのそれぞれの主観が集積され、相互に理解され共有されることによって相互主観が形成される。ブログに対して世論形成への期待が語られるのは、まさにこのタイプ。

 今回、「主観」と「相互主観」という言葉を用いて表現したのは、『社会学的思考の基礎』において、下田直春が科学的認識の四段階を立てわけ、主観と客観の問題をキレイに説明していることから、ヒントを得た。下田は相互主観の段階から普遍化への批判的認識の段階、さらには普遍化モデルの形成の段階へと進んで、自然科学の客観に対置して、社会科学の客観を説明している。

 ちょっと話がそれてしまったので、もとにもどそう。

 木村剛氏の「情報価値が変化する時代に、ブログはどういう役割を果たすか?」という問いについて、私は、このように考えた。

 これまでのマス・メディアの情報に対する個人の依存度は、ブログの登場によって減少傾向に流れるだろう。
 なぜマス・メディアに対する依存度が高かったのか。それは、取材力の圧倒的な差に起因していると考える。個人の生活では触れることのできない、時事・事件などの接点を、メディア各社は持ち合わせている。低俗な週刊誌といえども、「自分たちには取材できないので、ことの真偽は分からないが、彼らが取材した結果を書いているのだから事実を反映しているのだろう」という意識が、依存度を高める結果となる。
 週刊誌の覆面座談会などはもってのほか(そもそもが事実に基づいていない)だが、テレビ局や新聞社が報じる内容であっても、製作者側の意図が組み込まれていることは、現在ではだいぶ常識化してきたように思う。映像の使い方や記事の書き方には、表現しようとする側の意図が反映し、事実のみを伝えたとしても、受け取る側にある一定の方向性を暗に伝える結果となることは理解されることと思う。
 
 マス・メディアであっても作り手の主観が混じる。しかし、マス・メディアと視聴者の間ではコミュニケーションが成立しないので、伝え手と受け手との間での相互主観の形成は成り立ち得ない。マス・メディアが一方向で放った情報(+方向性)を受けた視聴者の間でのみ、相互主観の形成が可能だ。

 そもそも、マス・メディアであっても時事・事件をそのまま伝えるのではなくて、時事・事件といった事象の一側面を伝えるに過ぎないことから、メディアが伝える情報は「すなわち真実」ではなくて、「一側面の事実」である。ブログはその「一側面の事実」を契機としていることが多いので、bloggerとマス・メディアとでは情報ソースに決定的な違いがある。情報ソースに決定的な違いがあっても、その事実をもとに形成した主観を一方向で伝えるのがマス・メディアで(←もちろん社内での検討を経ているから記者の個人主観ではないが)、双方向で個人主観を相互主観へと引き上げる機能を有するのがブログである。

 ブログが有する「個人主観を相互主観へと引き上げる」効果は、マス・メディアが一方向で放たれる「論評記事」(事実を伝える記事ではなく論評系の記事)を凌駕する可能性があると、私は考える。同時に、そのような「論評記事」の価値を下げると考える。なぜなら、事実の報道とは異なり、社説やニュースキャスターなどの論評は、非常に狭い範囲での検証しか経ていないからだ。ブログがより広範囲にわたって浸透し、3.から4.へと変化すれば、より多くの個人主観のせめぎあいの中から相互主観が形成される。そのとき、単なる一人のライターやニュースキャスターの個人主観の発露は、マス・メディアという強大なツールをつかった押し付け(←一方向であるが故に)になって、価値が下がるだろう。

 マス・メディアは今後、事実の反映度をより高く保たないと価値が低下し、ブログは今後、相互主観の形成に貢献するサイトの価値が高まり、相互作用がより高度なレベルへと向かうだろう。(ただし、その価値に気がつく人が増加すればのことだが)

 卑近な例ではあるが、平日夜10時の時間帯に、報道ステーションからNHKニュース10に鞍替えする人が増えている現象は、これに近いものがある。報道ステーションの視聴率の低下は、古館キャスターが解説者に対して、視聴者を代弁した話題のフリ方ができておらず、「そんなレベルの突っ込みでいいのかよ!」とか「そんな話で総括すべきじゃないだろ!」という不満が、より私情をはさまないNHKへと切り替えさせる原因となっているのではないか。少なくとも私はそうだ。

 せっかく番組内に解説者を据えておきながら、ニュース映像が終わってスタジオに切り替わって、キャスターが的外れな観点で解説者に発言を促せば、ニュース+αの「+α」の部分の価値が低下し、ニュースはニュースとして報道してくれるだけでよい、とNHKへ切り替えることに。その点ニュースステーションの久米氏のつっこみは、視聴者の思いと一致する部分が多かったのではないだろうか。

 最後に総括すると、ブログというツールが持つTBとコメントの機能によって情報間の連帯が広がり、個人主観から相互主観の形成へとユーザーの価値感が移行することによって、これまでの短絡的な、反応的・反射的な世論の形成から、思考結果の相互作用による、より重みのある見解をもてるような個人、その集合体である社会へと移行するように考えることができると思う。
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by cogno_eb2 | 2004-06-11 13:57 | 社会学的考察

ブログはメディアになれるか?   

 木村剛さんのブログで「ブログはメディアになれるか?」という記事があったので、以前から考えていたことを少々書きます。
 
 ブログが新しいメディアになれるかどうか、という問題は、ブログを運営する「個人」、マス・メディアや政府などと対置する意味で、「市民」がどのようにこのツールを使っていくか、にかかると思います。

 前提として、私は木村さんと同じく、ブログに対する期待をもち、ブログをメディアに育てるというムーブメントには是非とも協力したいと思います(←私が役に立つかどうかは別として・・)。

 さて、私が大学院で学んでいたころは、「2ちゃんねる」が注目されていました。個人が泣き寝入りする時代は、ネットワーク時代に入って終焉する可能性がある、と。(←もちろん学術的にもっと高いレベルの話でしたけどね。)

 しかし、私は異なった考えを持ちました。2ちゃんねるの弱点は、「議論が成熟しない・荒れる」「ネガティブ情報の集積になる」「集積された情報に対して感情が反応する」等々とあげることができるのですが、つまりは、市民の認識力を高度に引き上げることに貢献できていないという現実があると、私は考えています。これはかなり大きなことです。社会的に認知されないのは、認識力や分析力の向上に貢献できないという致命的な欠陥があるからだと考えています。

 私は、市民が自らの認識力や分析力などの向上を希求しなければ、政府や役所、マス・メディアや大企業の形式合理性のブロックを破れないと考えます。政府等は自分たちを守るために形式合理性の堅固なブロックをします。私たち市民が出くわす、「え~、タテマエは分かるけどさぁ。そんなこといってんじゃないんだよ」という類の場面をケースに考えると、形式合理性はまさにこの「タテマエ」ですね。市民はそれに対して感情的に非難をするという対抗手段をとるわけですが、政府等からは「市民エゴ」と片付けられ、平行線です。ブロックは破れません。

 さらにタチの悪いことは、政府等は、自らは形式合理性のブロックで身を固めながら、情報操作をする、ということです。

 我々はその形式合理性のブロックを破るだけの合理性を身に付けなくてはならないと思います。

 某教授が「2ちゃんねる」のある側面に着目したのは、集積された情報が風評被害という副次的効果を生み、企業を動かしたという事実でしたが、これは企業に有効な手段であっても、それ以外には有効かどうかは疑問です。

 さて、私は形式合理性の資質を向上させることを目的にHPを開設していましたが、ブログの登場によりブログに切り替えました。やはり、トラックバックやコメントの機能により、連動性や双方向性が付加されたことが大きいですね。HPをやっていたころとは雲泥の違いです。

 ただし、ブログのこれらの機能が私の希求する「形式合理性の資質の向上」に向かうためには、もう少し時間がかかるかなと感じています。それは、政府の動きや社会動静などは、第一にマス・メディアからもたらされるという現実があるからです。取材が仕事であるメディア人とわれわれブロッガーを比較すれば、ソースの入手経路にあまりにも差があります。

 そのような現実の中で、「ニュースを見た」→「私はこう思った」の次のステップに移行しない限り、ブログはメディアにはなり得ないでしょう。

 私はHP時代から、そのニュースに接したときの第一印象にとどまることなく、さらにはメディアを通して知るその問題をとりまく論調に一石を投じることのできる視点を提供しようと記事を書いてきました(←もちろん、できていないものも多いかもしれませんが・・)。コメントやトラバの機能でその視点の集積ができ、前向きに論点を整理していこうという姿勢が前提となれば、有意義な集積が可能となるでしょう。

 2ちゃんねるは否定論者は否定の姿勢が最後まで崩れず、肯定論者もまたしかり。そして最後は排他合戦が始まる・・。
 
 最終的に排他に向かうかその逆かによって、大きく変わってくると思います。なぜそうなるか、は、別の機会に譲るとして、とにかく、ブログがメディアになるためには、形式合理性のブロックに対抗できる「市民の実質合理性の視点」を提供し、共有できる媒体とならなければいけないでしょう。
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by cogno_eb2 | 2004-06-01 15:56 | 社会学的考察