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認識→評価 客観と主観の構造(1)   

 現代日本社会は、1950年代に危惧された大衆社会の様相を呈しており、情報化社会の出現は、「智民」どころか「サイバー・マス」あるいは「ネオ・マス」が出現させたように思う。ここでは、古典社会学をヒントに客観と主観の構造について、記しておきたい。

 デュルケムは、社会に存在している種々の言明を、それぞれの言明が生成される過程の手続きを要件に、一般的言明と科学的言明に分類していると解される。

 デュルケムはまず、科学的判断は我々が生活する日常的な社会において蓄積されている諸判断の結果(「通念」や「常識」という言葉で語られている)とは明確に区別されるべきものであるとし、後者のいわば“無反省な情念的・主観的印象”にとどまることのない、より洗練された判断、その結果としての言明を目指さなくてはならないとした。また、そのような認識の結果は社会通念や常識として形成されるモデルとは異なってくるとした。


「社会についての一科学が存在するとすれば、それは、種々の伝統的偏見のたんなる敷衍にとどまるべきではなく、一般人の眼に映じるのとは異なった仕方でものを見るようにさせることを予期しなければならない。というのは、およそ科学の目的は発見をなすことにあり、しかも、いっさいの発見は、多かれ少なかれ通念にさからい、これを戸惑わせるものであるからである。」(『社会学的方法の基準』岩波文庫p15)


 デュルケムは、社会学が一個の独立科学としてのアイデンティティを確立するため、社会における一般的な理念形成の方法や、社会学草創期の哲学的思考方法と差別化を図るため、それらの方法とは異なった、社会事象を認識者の外側に位置する「モノ」として位置付け、「モノ」を観察する自然科学者のように認識せよと訴えた。


「人々は、社会学的な対象にも哲学的思考の諸形式を適用することを根強い習慣としているので、右の予備的な定義のうちにもしばしば社会的事実についての一種の哲学を見いだす結果となった。(中略)筆者が目指したこと、それは、科学からもたらされる帰結に哲学的見地から予断を加えるのではなく、たんに、科学者が事実をあるがままにとらえ、他の事実と混同しないですむためには科学の扱うべき事実をどのような外的標識によって認識することができるか、を指摘することにあったのだ。」 前掲書p38


 デュルケムはこのように、一般的言明が生成する過程とは異なる過程を経て、社会的事象をモノのように観察する社会科学者によって編まれる言明こそが科学的言明であり、その言明が認識主観の外側に厳然として存在する社会の実像を示すことができると考えた。
 人間にとって外在的で拘束的な「社会的事実」を“客観的に”対象とすることが社会学の任務であるとデュルケムはいう。

 このとらえ方は、富永(1993)の分類する「実証主義」にあたる。富永は実証主義と理念主義に分類し実証主義の特徴として次の6点を特徴として挙げている(富永健一『現代の社会科学者』(講談社学術文庫1993)pp100-102)。

1.認識における客観主義
2.普遍化的経験主義
3.経験と論理の二元論
4.測定とデータ処理の科学的手続きの重視
5.科学的認識の価値・理念からの自由
6.科学一元論

 富永の分類によれば、デュルケムは、社会学第二世代に位置し、機能主義の潮流の祖である。


認識→評価 客観と主観の構造(2)へ続く

by cogno_eb2 | 2009-08-22 01:29 | 社会学的考察

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